2024年8月長岡花火大会にて |
OSHOの講話をシェアします。😌
バラの花が何の役に立つ?
歌っているこの鳥たちが
何の役に立つ?
はるか遠くで、
あなたを呼んでいるこのカッコー…
何の役に立つ?
星が何の役に立つ?
そして山が?
そして河が?
存在は祝祭だ。
それは市場ではない、
それはフェスティヴァルだ、
それは歓喜のカーニヴァルだ。
それは踊りだ、
それは歌だ、
それは愛だ。
それには何の実益もない。
それは、他のいかなる目的への手段でもない、
それそのものが目的だ。
それこそ私があなたがたに
教えていることだ。
喜びに満ちあふれなさい、
祝う人でありなさい。
生を完全に愛しなさい、
生を完全に生きなさい。
もちろんあなたが、
自分の力でパンとバターを
手に入れられるほど
聡明になるのは言うまでもない。
それに、それはそれほど
大きな問題ではない…
それは、ごくわずかの努力で、
いともたやすく手はずを
整えることができる。
そのために自分の生全体を
無駄にする心要はない。
踊りがゴールだ。
他のものはすべて部分にすぎない。
そして、もし“あなた”が
喜びに満ちていたら、
あなたは人々が喜びに
満ちあふれるのを助ける。
もしあなたが笑うことができたら、
あなたは存在のなかに
笑いのさざ波をひき起こす。
それが真の奉仕だ。
知っているかね?
アルバート・アインシュタインが
死ぬ前に、
誰かが彼に尋ねた。
「もしあなた にもう一度機会が
与えられ、
あなたが
この世に戻って来ることを
神が快く許されたら、
あなたは何になりたいですか?」
彼は目を開けて、言った。
「ひとつ確かなことがある…
物理学者には二度となりたくない、
科学者には二度となりたくない!
むしろ私は配管工になりたい」
ある理由がある、
そこには偉大な体験が含まれている、
そこには大きな後悔が含まれている。
アルバート・アインシュタインは、
自分の人生を無駄にしたことを、
自分がヒロシマとナガサキの原因だということを――
自分が人類にとって
アドルフ・ヒトラーよりもさらに危険だということを
熟知している。
いつ何どき、
世界全体が消滅してしまうかもしれない可能性がある。
しかも、その理由と原因は
アルバート・アインシュタインにある。
だが、彼は、
原子エネルギーを
発見しつつあるとき、
自分は社会に偉大な貢献をしている
と考えていた。
どうか、あまり社会の役に立つことは避けて欲しい。
バラの木を植えなさい――
ヒロシマやナガサキは
もうたくさんだ。
小さな植物に水をやりなさい。
もう少し世界に緑を、
もう少し世界に赤を、
もう少し世界に黄金色を
もたらしなさい。
ギターを弾きなさい。
もう少し世界に音楽を、
もう少し世界に
調和をもたらしなさい。
愛しなさい。
愛のために愛しなさい。
長岡花火の映像、ちょっとおすそわけ♡
「人の役に立ちたい」
その気持ちは、もちろん尊いもの。
それが悪い、
という話ではありませんからね。☺️
ただ、その気持ちの裏に
「人の役に立たなければならない」
「そうでなければ、自分には価値がない」
「人の役に立てば、認めてもらえる」
といった信じ込みが隠れてはいませんか?
それをよくよくチェックしてみて欲しいなぁ、
と思うのです。
それがあるとしたら、
「私は人の役に立たないと価値がない」っていう
痛みが動機(種)になってしまってますので、、、
動機 = 結果
で、自己犠牲になりがちだったり、
「やっぱり私には価値がない」
って痛みを感じる結果になってしまいがち、、
ではないでしょうか?😌
そうすると、どんどん
「価値がない」ループにハマり込んでしまうので、、
心当たりがある人、
ループから抜け出したい❗️って人には
立ち止まってみてもらいたいなぁ、って思います。
「人の役に立ってこそ、価値がある。意味がある。」
という概念は、
集合想念の中にもがっつり入っているから、
当たり前だと思ってしまって、
なかなか疑うことができませんよね。
私たちはずっと、親や学校だけでなく、
常識やドラマや映画からも、
それを植え付けられてきました。
でも、みんながそう信じ込んでいることが本当
とは、限りません。
信じがたい人もいるかもしれませんが、真実、
私たちの価値は DO によって
決まるものではないんです。
DO によって決まると思い込んでるから
私たちは自分のしたことで
自分をジャッジします。優劣をつけます。
できないと、自分を責めたりします。
もっとできるようにならなくちゃ、
もっと、もっと、、と
欠けている部分にばっかり、目を向けてしまいます。
したこと、されたことに、
一喜一憂しまくります。
そう擦り込まれてきちゃったから
しょうがない。
しょうがないんだけど、、、
そこじゃ、
ないのになぁぁぁあああああ‼️
いや、いいんです。
一喜一憂すること自体には
なんの問題も、ない。
一喜一憂ドラマを楽しむのは、
全然、いい。
でも、それも度を越すと
楽しむどころじゃないくらい
自分や人を責めたりして、、、
どんどん重ーーく、苦しーーく、
なっていってしまうでしょう?
とてもじゃないけど
生を完全に愛することも
生を完全に生きることも
・・・できませんよね。
重くて苦しいのだって
決してそれ自体が悪いわけじゃない。
重くて苦しいからこそ、
人生の意味を考えたり
人生の目的を探し求めたり、、、
するわけで。
ただ、ずーーーっとそこに留まっていては
前に進めませんからね。
ぐるぐるぐるぐる… とことんやって、
「もう、飽きた‼️」ってなったら
(っていうか、もう、飽きてくださーい😂)
違うアイデアを試してみるのも
悪くないでしょう?😆
「人の役に立とう」とする前に
自分にとって喜びって何なのか?
どうぞ、自分に喜びを与えることに、
一生懸命になってみてください❣️
人を喜ばせる方が、自分を喜ばせるよりも
エライ??
そんなの、ナンセンス‼️です。
自分を喜ばせることで、
自分がどんどん満ち満ちていったら✨
『自然と』人を喜ばせたくなるもの。
その時の動機は、もう痛みではなく
純粋なもの となっています。
どうぞ実験だと思って
やってみてくださいね。
ただし、『手当』にはならないように。
(「区別がつかない!」って方は個人セッションをどうぞ💓)
【参考ブログ】
☆「自分を大切にしてるつもりが、
手当ばかりになってはいませんか?」はこちら。
そうやって生き始めると、
BE そのものが目的だ🌟ってことにも氣づいて
そもそも目的を探す必要すらなかったんだ❗️
って、『自然と』なります。
頭で自分を言いくるめる必要は
ありません。
この瞬間に、喜びで満ちていること✨
それが大河の一滴となり、
全体へと広がる。
それが、真の奉仕💖
誰かのために何かをすることが奉仕、
だと教わってきましたから、
ちょっと混乱するかもしれませんが、、
痛みを動機にやってるとしたら、
宇宙に、全体に、
痛みを広げてるようなものですから、
真の奉仕 とは、言えないんですよね、、
むしろ「人の役に立ってる!」と思うことが
手当になってしまって、
そこに隠れた自分の痛みに気づくのが
どんどん遅れてしまう可能性が、、高い。
そして、どんなにやってもやっても
満たされなくて、
苦しくなって初めて氣づく。
自分の本音を大切にすることを、
自分を喜ばせることを、
後回しにしていたことに。😌
どうか、大切な自分を、
もう後回しになんてしないでくださいね。
愛されるためじゃなくて
愛のために、愛しましょう✨
動機を、痛みではなく喜びに変えるために
セッションしています。☺️
種が変われば、結果も変わりますから✨