ダンサーで 振付家で 演出家でもある
勅使河原三郎さんの「ケイジの夢」を見てきました。
この「ケイジ」とは、あの「4分33秒」でも有名な
ジョン・ケイジのこと。
(知らない方は、ARTnewsの
☞こちらの記事「《4分33秒》はなぜ名作なのか」をどうぞ✨)
4分33秒の間、演奏が行われない実験的な音楽…
音を人間のコントロールから解放する試み…
勅使河原さんも、
踊りを人間のコントロールから解放する試み
をしているように感じました。😌
勅使河原三郎さんのことは、
私がまだ20代で、アート雑誌の編集をしてた頃、
『写真の中に閉じ込められた男の肉体』という特集の中で、
ダンサーを撮った写真もいろいろ載せたことがあり
その中の1枚の写真を通して、初めて知ったんですね。😌
荒木経惟さんの撮った、インパクトのある写真↓
私は、この特集を機に、
ダンサーや舞踏家のことも知るようになり、
繋がりもできたので招待されることもあって、
20代から、ライブや芝居のみならず、
マニアックなコンテンポラリーダンスも舞踏も
結構見てきたのですが、
勅使河原三郎さんのダンスはついぞ見る機会がないまま
50代になっておりました…。
そんな中、去年、録画したままになっていた
日曜美術館 「Be yourself 汝自身であれ」という
勅使河原三郎さんの特集を見たんですね。
「孤立することを選び 恐ることを選び 汝自身であれ」
そしたら、もう、言ってることが
「日々と宇宙の講座」でお伝えしてきたような
核心をつくことばかりで、、😳
私にはすごく響いたので、
これはぜひ、ダンスも生で見たい❣️と思ったのでした。
話の一部をここにもシェアしておきますね。
☟
ダンスというのは 表現(表面?)上
「行う」という「expressionする」という
外側、、外向きのことではあるんだけど
それはその裏側にある その反対側にあることこそが
つまり 見えないものこそが見えるもの
動かないものこそが動くもの を作ってる
今 呼吸をしてるってことが どうしたって大事なんです
しかし呼吸って目には見えないじゃないですか
目には見えない呼吸というものが
みんなの動きを明快にしてるんですよ
嫌なことを嫌なこことして絶望することは大事なんです
感情を表に出しちゃいけないってルールはないんだから
ダンスをやる人は
それくらい感情的になっていいと思っています
(練習するダンサーたちに向けて)
それっぽくするんじゃなくて
本当に気持ちがそうなるまで動かないでやってごらん
もう感じるまで感じて
それが外に出てくるっていうふうに
ちょっとそれがどういうことかってことを探ってみて
人間の困難、葛藤っていうのは
例えば戦いとか 行き違いとか
たぶん永久に問題は解決しないことかもしれないくらいに
矛盾することを抱えて生きてるんだと思うんですね
そういう時に私が考えるのは
孤立すること 孤独になること は
決して悲しいこと 分断されたことではない と思うんです
英語で言うとselfというか
自己とは何か
一人一人の自分の好き勝手なことではなくて
一人一人が自分一人として生きることとは何か
ということを求め続ける
40年以上踊り続けている勅使河原さんだから
言えているのかと思いきや、
若い頃からかーなり深いことを言っていたってことが
この映像↑でわかりました…。😌
当時、たぶん多くの人にはチンプンカンプンで
「変な人」って印象かもだけど😂
ある種の『体験』をすでにしていて、そこからの身体表現、
ダンスだったんだな、と。
ダンスについての話でも、すべて、ダンスのみならず
人間、存在、人生、生き方、在り方…
といったことに通じてるので、面白いですよ🌟
先日のダンスの最後に、勅使河原さんが
「表すのはではなく 現れてくる」ってことも
おっしゃってたんだけど、
これもすごくわかるなぁ、と思って。
「表す」のは自我ですけど
「現れてくる」のは自我を超えたもの なんですよね。😌
「The New York Times Style Magazine」 のインタビューで
それを理解しなければいけません。
テーマに対して自分は何を感じ、何を聞いているのか、
その起点、Originをまず客観視する。
その準備ができれば、おのずとそのように体は動きます」
とも言ってるんですけど、
ダンスだけでなく、私たちみんなに言えること✨
でもあるなぁ、と。
「どのように存在するべきか」が理解されれば
「おのずとそのように体は動く」し
そのように「わたし」のストーリーは展開していく…
んですよねぇ。😌
こないだ「スイッチインタビュー」で
演出振付家のMIKIKOさんと 俳優の河合優実さん の
対談を見てたら、MIKIKOさんが
「ダンスが上手だね うまい って言わせるのは最後というか
そこにどんな感情が乗せられて
どんな苦しみとかどんな喜びとか
今まであなたが感じてきたことが勝手に出るようになるって
もう テクニックを磨いてある程度のところまで行けた人の
ご褒美というか」
って言うシーンがあって。
「勝手に出るようになる」は
「現れてくる」に近いとは思うんですけど、
現れてきたものを 現れてくるままに 出そうと思ったら
その表現におけるテクニックって
確かに、ある程度は必要 ですもんね。
ダンスだけでなく、歌でも楽器でも絵でも。
かといって、テクニックに走ってもズレるから
勅使河原さんは
「どう動くか以前に、どのように存在するべきか、
それを理解しなければいけません。」
って、その根底、前提を
大切にしているのでしょう。
私たちが生きる上でも
「何をなすか」より「どう在るか」を
理解することが大切なように✨
舞踏家の故・大野一雄さんが
その時の雑誌のインタビューで「踊り」について
こう答えてくれていました。
結論を出してはダメ。
見せるためではない。
うまくやろうと考えてはダメ。
命そのものと格闘すること。
体験に体験をつむこと。
うまくなっちゃだめ。
見せることに意識をおいてはだめ。
失敗しながら内面凝視することを覚えていけばいい。
うまくやろうとするとテクニックにはしる。
下手でいい。
これがこういう意味があるんだ、とか
ああいう意味があるんだとか、考えないこと。
これも「踊り」に限らず
「生きる」ことにも言えるなぁって思います。☺️
私がまだ21,2歳の頃 大野一雄さんと |
常に「今」にしかいないから
「身体」を使った表現を極めている方々の
おっしゃることは、
すごく根源的で、響くんですよねぇ✨
最後に、
毎回、勅使河原三郎さんがダンスの告知に寄せている
詩のような散文のような、、が、
私はなんだか好きなので、シェア💓しておきます。
幻の人
あの人はきっと幻で 現実にはいないが 私には見える
あの人に私が見えるとしたら私も幻か
見える見えないではなく
有る無しか
あの人も私も生の事実と幻想によって人間になった
別の幻である時間が長い詩を書いた
神秘は幻想に詩を歌わせる
勅使川原三郎