【お知らせ】
2019年5月から、RAS認定ファシリテーター養成講座の内容が改変され、受講料も上がる予定でしたが、延期となりました。改定内容が確定し次第とのことですので、決まり次第また告知させていただきます。
講座内容について、詳しくはこちら
11/23(土)高田裕子さんの絵を鑑賞後に小さなお茶会vol.52@表参道は満員御礼となりました。キャンセル待ち受付中。詳しくはこちら

【リトリート】
12/21(土)〜23(月)冬至に春原恵子さんのコンサートと沖縄の聖地を巡る旅〜闇を見つめて光に還す2泊3日は残2席となっております。詳しくはこちら

【ゼニスオメガヒーリング・プラクティショナー養成講座】
12/14(土)15(日)レベル5授業は満席となりました。
場所が取れた場合のみ、2名まで増席可能ですので、ご希望の方はお気軽にご相談ください。
12/14(土)11:00-19:00にレッスンのみを、
12/15(日)10:00-13:00にティーチャー希望の方用の座学を行う予定です
レベル2、3授業をご希望の方はご連絡ください。あと1名いらしたら日程を調整いたします。
レベル1〜5まで、ご希望に合わせて随時開催中です。他校からの生徒さんもどうぞ。お気軽にお問い合わせ下さい。
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2012/03/29

マインドコントロール、というもの。



一時期、ワイドショーなんかでよく「マインドコントロール」という言葉が使われていましたね。皆さんはあの事件を受けて何を思いましたか?
「なんだかコワイ・・・」「なぜそんなことになってしまったんだろうか?」「かわいそうに」 「騙される方が悪い」「私も気をつけよう」・・・人それぞれ、何かしら思うことはあったのではないでしょうか。

でも、マインドコントロールって、何も特別なことではありません。

例えば日本人だったらほとんどの人が、仏像の前では手を合わせますよね?
何故でしょう?
そういうものだと教えられたから?
それは誰が決めたの?
その根拠は?

そういえば、なんでだろう・・・なんとなく、そうしてたな・・・
という人が大半だと思います。
ほとんどの「一般常識」とされているものって、「教育」という名のマインドコントロールだと思いませんか?

例えばスーパーで。
「今日はカレーにしよう」と思って買い物に来たのに、「サンマが安いよ!今だけ大特価!」という店員さんの声に「あら。それはお得」とついつい献立変更・・・なんてこと、よくありませんか?
結果、店員さんの意のままに操られてしまったわけですから、これもマインドコントロールです。

「今日は絶対カレー」という信念を持っていれば、いくら安くてもサンマごときで崩れないはずですが、「そっちの方が得」というメリットを感じてしまうと、人はフラリとなりやすいもの。占い師だか霊能者だか分かりませんが「この人といれば自分にとっていいことがある。」というメリットを追いかけてしまえば、自分で自分のことを決める、という当たり前のことも次第にできなくなってしまいます。

すべての始まりは、「依存心」だと思いませんか?
依存心は商売になりますから、依存心につけこんでくる人も残念ながらいっぱいいるでしょう。
そういう人たちに騙されたくなければ、できるだけ自立を心がけることが大事です。
人の意見に振り回されることなく、自分の信じる道を進むこと。
とはいえ、何を信じていいのか分からなくなることもありますよね。

仏陀は言ったそうです。
「何処かで読んだ言葉だとしても、誰が何と言おうとも、たとえ、私の言った言葉であっても、汝自身の理性と常識にそぐわない限り、信じてはならない。」

こういう人だから、本当に本物だなぁと思います。
自分が揺らいでしまった時に、誰かのもとを訪ねようとするなら(さすがに仏陀は無理ですけどね)、こういうスタンスの人がいい。自分の考えは持っているけれども、決して押し付けようとするのではなく、あくまで本人の考えを尊重する人。

ポイントは、依存させようとするのではなく、自立させようとしていること。です。
何かに頼りたくなった時、すぐに答えを与えてくれるのは、その方が楽で簡単だけどもやっぱり違うと思うんです。例えば「これを買えば幸せになれる」とかいうのって、「じゃあ、自分の力だけじゃ幸せにはなれないの?!」って話で、せっかく皆、素晴らしいものを持って生まれてきてるっていうのに、自分の能力をいきなり否定しちゃうわけですから、出るものも出なくなってしまいます。依存しているうちは、なかなか自分の能力にも気づけないものです。気づくためには、自分で考え抜いて、自分が納得のいく答えを見つけないと。だから私は、あくまでも、そういう自分でいられるようにサポートしてくれる人や手段を見つけることをオススメします。

私は、オーラソーマにしてもヒプノセラピーにしてもゼニスオメガヒーリングにしても、自立を促すツールだと思い、取り入れました。自分で気づいていくことが、何より大切なプロセスですから。私は個々の、自己治癒力ってものを、信じてるんです。

一人じゃつらい時に、誰かに頼るのは決して悪いこととは思いません。
でも、頼る相手を間違えないように、人を見る目は養なっておかないと、痛い目にあうこともあります。判断に困ったら、「自立させようとしているか?依存させようとしているか?」をチェックしてみて下さいね。

2012/03/22

バースボトルとイヤーボトル


20日、春分の日の出来事。
春分の日は西洋占星術では元旦なようなものでもありますし、シャスタで会ったヒーラーのアモラさん曰く「2012年の春分の日には、非常に特別な調整が起こります」とのことでしたので、私は自分のイヤーボトル(その年のボトル)である9番ボトルについて考えてみようと思い立ち、棚から取り出して写真に撮ろうとしました。
そしたらつい誤って、棚を倒してしまい、30本近いボトルが落ちてきて・・・ 悲しい状態に。でもびっくりなことに、割れたボトルは他でもない、私のバースボトル(誕生日のボトル)である5番ボトル!!この偶然には思わず必然を感じてしまいました。今の私が考えるべきは、イヤーボトルではなくてバースボトルについてだったのかもしれません。

そんなわけで、今回はみなさんに、バースボトルとイヤーボトルの出し方について説明しておこうと思います。

例)1978年4月5日生まれの場合

<バースボトルの出し方>
1+9+7+8+4+5=34
3+4=7
→34番と7番がバースボトルとなります。

<2012年のイヤーボトルの出し方>
2+0+1+2+4+5=14
1+4=5
→14番と5番がイヤーボトルとなります。

2本とも自分に関係のあるボトルとなりますが、 最終的にはすべてのものが成り立つ基礎である一桁の数に戻りますので、二桁のボトルはあくまで全体像の一部、参考ボトルとみなし、一桁のボトルを基本的なエネルギーと考えます。

ただし、マスターナンバー(11, 22 ,33, 44, 55, 66, 77, 88, 99)の場合、これを足す必要はなく、参考ボトルは存在しません。


オーラソーマのボトルにはすべてナンバーがふられていて、数秘とも関係しているので、こうやって誕生日から自分と関連のあるボトルを出すこともできるのです。
イヤーボトルからは、その年の自分のテーマや方向性を読み取ることもできます。

直感で選ぶよりも占い的ではありますが、ボトルから何を受け取るかは自分次第ですので、総合的に見て分析していくのも、なかなか面白いですよ。



★オーラソーマについて、詳しくはこちら
★オーラソーマのプロダクトについて、詳しくはこちら

2012/03/20

ベトナムの山奥からやってきたモノ


私は19歳の時に初めてバイト代をためて海外を旅して以来、今まで30カ国ほど訪れて来ました。旅の場合はほとんどが一人旅で、いわゆるバックパッカー。知らない土地で、知らない人に囲まれて、毎度あるハプニングにも一人で何とか対処してきたおかげで、体も心もかなり鍛えられました。

中でも、気に入って3度も訪れたのがベトナム。上の写真は2004年、3度目のベトナムで、山岳民族の村カンカウのマーケットに行った時のものです。

サロンのお部屋に敷いてある布は、実はここからやってきたモノ。チクチクと手で縫ったぬくもりが伝わってくる感じが好きで、思わず5枚ほど買い込んでしまったのでした。

  
マーケットに行くにもバスさえないので、バイクとドライバーを雇って、このくらい↑山奥まで入ったんですよー。ここは花モン族のマーケットで有名らしいのですが、日本人は私一人で、観光客も2、3人しか見ませんでした。

ご覧の通り、花モン族でいっぱいの華やかな様子は圧巻。
バックにかかっている布が見えますか?
こうやって売られていた中から買いました。


花モン族の衣装はとにかくカラフルでかわいい。
そしてかわいい女の子も多かった!
マーケットから少しバイクで走ったところにあった山村にて。
この子、連れて帰りたいほどかわいかった。。今頃どうしてるかなぁ。
私はこうやって、その土地の生活の中に紛れ込んで行くのが好きです。
北ベトナムの街サパのモン族のおばあちゃん。店先でもチクチク。
小学校に潜入。赤ザオ族の子供たち。みんな、かっこいい!

北ベトナムの山間の街には、こんなふうに、民族によって様々な衣装が残っていて、ちゃんと生活に根付いていました。もうあれから8年。今はどうなってるかなぁ・・・素晴らしい伝統だと思うので、なくなることなく引き継がれているといいなぁと思います。

この布だけでなく、サロンには世界中からはるばるやってきたモノたちがいっぱいなので、ちょこちょこ、どこからやってきたのか?そこはどんな場所だったのか?をご紹介していけたらと思います。

カテゴリ名は<はるばるやってきたモノたち>ということで。
お楽しみに。

2012/03/13

もうすぐ春ですね。


まだまだ寒いですが、花屋さんもだいぶ賑やかになってきて、やんわりと春を感じます。
ぼけの花の盆栽がかわいかったので、買って、玄関に飾ってみました。右下で見上げているのは、メキシコで買った小さなカメのぬいぐるみ。笑


ドアの前に飾っているリースは、いつも友達が作ってきてくれます。 海外仕事が続くと、どうしても水やりができず元気がなくなってしまったりして、その度に植え替えてもらったりしているんですが、このリースで3つ目くらいかな・・・かわいい。


こちらのコンテナも友達に作ってもらいました。いい感じに育ってきて、控えめで落ち着く色合いも可憐な花の組み合わせも、かなりお気に入りです。
出かける時も、帰ってきた時も、この子たちを見るとほっとします。


部屋には、先日の誕生日にもらったブーケも飾ってます。
一緒に写ってるのは、去年同じ時期にもらったクリスタルの蓮の花。ひとつは妹の仁美から、もうひとつは友達の日登美ちゃんから。名前が一緒だと考えることも一緒なのかな?!と偶然の一致にびっくりしたのでした。笑

やっぱり花は、いいですよね。 心が穏やかになります。
植物って基本、生存競争はしても破壊活動はしないでしょう?
他から奪わないって、考えてみればすごいこと。
その点で、人間より進化しているとも言えますよね。

植物にも意識があるらしいので、私は切り花が枯れて捨てる時には「ありがとう」と言って感謝して捨てるようにしています。
なんか、こう、与えてもらった感じがするから。
花のある生活って、豊かというか、幸せですよね。

こうした何気ない日常を大切に、大切な人たちを大切に、できることから始めて、やりたいこともやりながら、感謝して、楽しんで、過ごしていこう。あれから1年たって、改めてそう思っています。

数年前、あるミディアムの方に言われたことがありました。
私たちは、私たちの使命というのは、世界のために、他者のために何かをすることだと思いがちだけれども、実は、私たちがここ、地球にいる理由というのは、世界的に地球的に何かを達成することなんかではなくて、もっとずっと個人的に、何かを成し遂げたり、学んだり、体験したりすることなんですよ、と。

決して、自分さえよければいい、という自分勝手な意味ではありません。
ヒプノセラピーを受けたことのある人だったら、ちょっと分かるんじゃないかなー・・・
すごく俯瞰した考え方だから、うまく説明するのは難しいですけどね。

マザー・テレサは、「身近な小さなことに誠実になり、親切になりなさい。その中にこそ私たちの力が発揮されるのですから」と何度も言ったそうです。

こんな言葉もあります。

希望と思えるのは、小さな<ゆらぎ>でさえも成長して、
全体構造を変えるからである。 Ilya Prigogine(chemist, physicist)

個と全体。
これは常に繋がっています。物体で考えると難しいかもしれませんが、液体で考えるとイメージしやすいかな・・ 水のようなものだと思うんです。一滴の水が海に落ちると、海全体に溶けてひとつとなります。
後は皆さんそれぞれの受け取り方にお任せしますが、こういったことを考えることに興味のある方は、(すでにお読みの方も多いと思いますが)この辺の本を読んでみても面白いかもしれません。

   


2012/03/09

今ここだけではない世界。

 
関係ないけど、相対性理論の「ミス・パラレルワールド」

「パラレルワールド」とか、「平行現実」って言葉、聞いたことありますか?
この、私たちが現実だと思っている世界は実はひとつだけではなくて、平行して無数の他の現実も同時に存在している、という考え方。
いわゆるスピリチュアルな本でもよく書かれている概念ではありますが、ドラマ「JIN-仁-」でも最終回で何気にさらりと描かれていましたよね。
仁の友達の医者が、タイムスリップして現代に戻って来た後の状況を考察して説明する、地味な(?)シーンがありました。聞き慣れていない人には小難しく感じられる場面だったと思いますが、このドラマが、タイムラインがひとつしかない、よくあるタイムスリップものとは一線を画していたのは、この、平行現実の捉え方にもあったように思います。
私は「こんな視聴率の高いメジャーなドラマで、こういうことが語られるようになったなんて!」とちょっと興奮して見てしまいました。

でも、私が気づいていなかっただけで、この考え方は映画や漫画、ドラマやアニメの、あくまで非現実世界では、とうに恰好のネタだったようで。(笑)

アニメでいうと「涼宮ハルヒの消失」なんかもそうですが、特に「魔法少女まどか☆マギカ」は圧倒的な完成度で平行現実について描いていると思います。

別に私はアニメおたくではありませんが、「まど☆マギ」は文化庁メディア芸術祭アニメーション部門で大賞に選ばれたし、まわりの評判も相当高かったので「これは見ておかなきゃ」と思って見始めました。いかにも萌え系なキャラクターには引いてしまう質ですが、ちゃんと見てみると、いやはや、とにかく脚本が素晴らしすぎて、人間哲学がかーなり深い。「エヴァンゲリオン」は最終話で哲学問答を一気に取り入れてましたが、「まど☆マギ」は全話を通してストーリーの中にしっかり一貫した哲学を織り込んでいるのです。もはや子供の頃に見たシンプルな魔女っ子物語とは全く違う。「この脚本家、宇宙の真理みたいなものがちゃんと分かってるなぁ・・・」と感服しました。

私もかなりその手のいろんな方々とも出会ってきたし、体験もしたし、勉強もしてきたけど、そうした中でやっと、自分にとっての、この世界の仕組みというか、真実みたいなものが何となく見えてきたわけですが・・・それにあまりにもしっくりハマってきたものだから、この話、私にとっては虚構の世界というよりは、現実世界に近かったりします。

例えば「願い事をひとつ叶えてあげる」と言われたとき、自分ではなく人のために願ってあげたら、その人は人として素晴らしい!とされるのが、よくあるパターンですよね。でも「まど☆マギ」は、そんな表面的ないい人では終わらせてくれません。その先にはどういう葛藤が待ち受けているか。偽善という言葉すらも浅く感じるほど、人間の持つ根底の感情をえぐってきます。ここのリアルさ加減はいちいち正論で、怖いくらいです。

語ると長くなってしまうので、この辺にしておきます。
見たことない方は是非見てみて下さい。
私たちが虚構だと信じている世界と、私たちが現実だと信じている世界。すでにパラレルワールド。どこに真実を見るかは、自分次第。
侮れませんよーー。


  


2012/03/03

記憶、というもの。

「Que voz feio (醜い声)」より ©山本良浩

皆さんは「Que voz feio(醜い声)」という短編映画をご存知ですか?
双子の女性がそれぞれの視点から、子供の頃におきた、ある出来事について語る映画です。
・・・単純に言えばそれだけなのですが、同じ出来事について話しているはずなのに、彼女たちの話の内容が微妙に食い違っていて、もはやどちらが事実なのか分からなくなっていく感じが、「あぁ、そういうことってよくあるよなぁ」と、自分の身近にある記憶のすれ違いに思いを馳せずにはいられなくさせます。そして、記憶というものがいかに曖昧で不完全なものか、改めて気づかされるのです。

そもそも、人は、忘れる生き物です。
私も、20代までは何かとくだらないことまでしっかり記憶していたものですが、 30を過ぎた辺りから、記憶のメモリーがすでに容量を超えたのか、何かを消去しないと新しい記憶が保存されないのではなかろうか、と思うくらい、結構いろんなことを自然と忘れるようになってしまいました。 (笑)
おかげで、昔は頭にくることや落ち込むことがあると、いつまでも引きずったりしたこともあったものだけれど、今は忘れてしまうので、どうでもよくなってしまったりします。
これは結構ありがたいことで。
まあ、他に考えないといけないことが増えて、ひとつのことに固執していられなくなった、ってこともあるんでしょうけどね。

でも、自分がすっかり忘れてしまったことを、人に言われて「そんなことあったっけ?」と思うこともしばしばあり、忘れることが増えるほどに、記憶ってものについて、考えずにはいられなくなったりもします。

人と共有している記憶は、自分が忘れても、誰かが覚えていれば、それは実際にあったこととして存在するけれど、誰もが忘れてしまったら、それは存在しなかったのと同じことになってしまわないだろうか?

一人きりの記憶、例えば一人旅での経験なんかは、自分が忘れてしまったら、それはなかったのと同じことになってしまうんだろうか?

記憶があってはじめて、過去は成り立つってこと?

じゃあ、記憶がねじ曲がったら、過去も一緒にねじ曲がるんだろうか?

・・・とかね。

友達が「その芝居は本多劇場でやってたんだよー、絶対!」と言い、
私は「違うと思うよー。THEATER TOPSじゃないかー?」と言い、10年以上前のあやふやな記憶について、検索して調べたことがあります。
結果はTHEATER TOPSだったわけだけど、友達は「えーー?そうだったかなぁ?本多だと思うけどなー。おかしいなぁ」とずっと頭をひねっていました。
ここで調べなければ、彼女の記憶の中では永遠に本多劇場ということでFIXしてたはず。それは実際とは違ってたとしても、彼女の中では事実として残ります。
どーでもいい話ですが、それって不思議です。

記憶なんて、所詮は曖昧なもの。
本当の過去と、記憶上の過去。
どっちが本物だと言えるでしょう?
記憶の数だけ、過去は存在するのかもしれません。

記憶の共有者がいなければ、もしかしたらすべてがあやふやで、あいまいな、 シャボン玉みないな、うたかたの日々。
だからこそ、愛おしき日々。

「ぼくたちは 何だかすべて 忘れてしまうね」

この、岡崎京子の、マンガじゃなくて物語集のタイトルには、
とてもひっかかってしょうがないものがあって、折に触れて思い出しては、やるせなくなったり、切なくなったりして、でもなんだかなぁ、救われるような気持ちになるのです。