皆さんに、2回目の宿題を出しました。☺️
1回目に出した『ご自分の中の日々の分離』に気づいていただくための
宿題をベースに、そこから今度はマイ・ルール、
どんな枠を作り、日々、その枠内でどんなドラマが演じられているのか、
それに気づいていただくための内容です。
これがまた、読ませていただくと、
私一人に止めおくのはもったいないばかりか、やっぱりね、
受講生同士はお互いに読んでいただけた方が絶対いい、
より気づきが深まるにちがいない、と思いまして。
皆さんの許可をいただいて、また
ここにシェアさせていただくことにしました。☺️
(ありがとう❣️)
まあ、こうなってくると、たとえ匿名でも、
自分の感想を読まれるのは恥ずかしい、とか、
人がこう思うのでは、とか、躊躇する方もいらっしゃるのですが、
この講座においては、それも含めて、宿題ですから。😁
多くの人は、まだ、必要以上に
「人にどう思われるか」を気にしながら、生きてます。
でも、ほんと、もう、そういう時代は
終わり❣️ですからね。
積極的に、その根底にある痛みを見てあげて、
(=認識してあげて)
終わりにしないとね。☺️
私は何も、イジワルでシェアしているわけじゃありませんから、😂
この人のはよくて、この人のはだめとかね、
比較のためでは全くもってありません。
だから、いいのを書こう!とかね、
気負う必要も、一切ありません。
思ったまま、感じたまま、でいいんです。
そうは言われても
気になるものは気になるでしょうけど、、😂
それはそれでね、いいんです。
その気持ちを見過ごさず、対峙してください。
このシェアによって、そういう気持ちになったわけではなく、
本当のところ、その気持ちはもうずっと前から、
自分の中にあったもの。だから。
ちゃんと直面していくと、そのうちに、
自分の奥に抱えているものが、見えてきます。
それが何より、大事なことです。☺️
人の気づきに触れることは、
比較して落ち込むためではありません。
波紋は、触れると、広がりますから✨
受講生以外の方にはよくわからない部分もあるとは思いますが、
それでも、読んでいただくと、どこかに、
今のあなたに必要なヒントを
見つけることができるかもしれませんよ。☺️
15個を振り返って,一番多かったのが
「自分のルールを人に当てはめて,その人をジャッジすること」でした。
そして,その人に対して,「こんなこともできないダメなヤツ!」
と思い込み
その人がまたなにかしでかしたら,
「ほらね!また,やってる」とさらにジャッジ。
でも,これは
他人だけではなくて,自分にもしていました。
15個を振り返って
「だめじゃん,私,・・・こんなふうに人をジャッジしている」
と自分に✖をつけていました。
「だいぶましになってきていたはずなのに,まだまだだね」
と自分に言っていたのでした。
ただ,起きたできごとをそのまま受け止めて,感じてみる
という行為がどうも苦手ですぐにジャッジが発動します。
さらに,
「私は,◉◉◉◉◉◉という枠をこれからも選択します」と,
言ってみると それで終わりにしていいのに,
これからも選択したことを選択し続けることを
なんだか悪いことのように感じました。
「私は,◉◉◉◉◉◉という枠を今,手放します」と言ってみると
手放したことをいいことのように感じたりしていました。
「良い悪いはない」とあれだけ言われて,
自分でも
「そんなふうに考えないもんね~。」と思っている割には,
まだまだよい悪いで判断していることに気づき,唖然としました。
自分で枠を作り,そこに自分を当てはめて生きるのは,結構,窮屈です。
でも,その枠を外していいとは思えませんでした
。
それが正しいと思っていたので,頑張り続けていました。
今,思えば「親にとっての都合のよい子」として生きてきました。
自分でその役を演じることが必要だと思い込んで,
そこにエネルギーを注いで,
自分の生きたいように生きることは二の次だった気がします。
少しずつ目覚めて,自分らしく生きることができるために,
「自分で選択していくことができる」という言葉は私にとって希望です。
まだまだ,整理されていなくて混沌とした部分が多いのですが
時間をかけて
体感しながらわかっていきたいと思っています。
次回の講座もとても楽しみです。
どうぞよろしくお願いいたします。
分離15個の奥にある「自分自身への無価値感」とか「痛み」
「コンプレックス」etcを見つけることは出来ても
「枠」を見つけることは少々難しかったです。
自分の価値観は自分では当たり前過ぎるせいでしょうか?
自分が見つけた「枠」にイマイチ確信が持てませんでした。
例えば夫に命令口調で話されてムッとするのは
「命令口調で話してはいけない」という枠のせい?
或いは「尊重されなくてはいけない」という枠のせい?
母が子供をコントロールしようとすることに対して不快に思うのは
「コントロールしてはいけない」という枠のせい?
いや、これもやっぱり「尊重されなくてはいけない」という枠のせい?
結局のところ私の分離は多くの場合「尊重されていない」とか
「存在が肯定されていない」とか感じる時に起こるようです。
それで「こういう時は尊重されていないということだ」という枠が
幾つもあって、その中で怒ったり傷ついたり。
見つけた「枠」をこれからも持ち続けるのか、手放すのかを選択する時、
ほとんどのものは手放してもいいものだと思いました。
本当に手放せたらどんなに楽になるだろう。
手放しを選択した枠の一つ一つに、手放しを宣言してみると、
思い掛けないくらいの爽快感!!
「あら、本当? ちゃんと本気で選択したの?」と自問し、もう一度、
分離15個を体験した時のことを思い浮かべながら
手放しを宣言してみると、ザワザワしてしまう枠が、まだまだありました。
要らないのなら「手放す!」と、決めればいい、
と以前、萬夕さんに言われました。
それで同じようなことを体験して同じように、
イラッとしたとした時に「手放す」と決めたことを思い出すのですが、
怒りや不快感は湧いてきます。
「感情は抑えなくても良い」と「手放すと決めた」ということの
兼ね合いが上手くいかずに負のループにハマってしまう、
というのが私のこれまででした。
今回の宿題で「手放し」に取り組んでいる最中、
そんな負のループのことを思って悶々としていたのですが、
そんな中、気づきを促されるような出来事がありました。
職場に苦手な人がいるのですが、その人の嫌なところを、
自分の身近な人の中に見つけてしまいました。
それは自分もそれを持っているということ、
相手は自分の鏡であるということだと納得せざるを得ませんでした。
「全部、自分」なのか。
「傷ついた」という思いですら執着でしか無いんだなぁ、
とジワジワ分かってきました。
何年もかかって亀の歩みのような進み具合ですが、
それでも少しずつ腑に落ちてくるようになってきた気がしています。
枠を見直してみて、被害者意識、コントロール欲が強いと感じました。
その枠たちから外れた場合を口にすると「なんか楽ー」と感じたので
やっぱり「べき」を手放したいです。
以前は、自分が被害者意識を持っているなんて思った事もなかったですが、
人や環境のせいにできて、
自分で責任を取りたくなかったのかと思いました。
責任って考えたこともなかったですが。
「私は悪くない」という思いはとても強いらしくて、だからこそ、
他人から悪いと思われないように、と思ってきました(無意識に)。
こんな環境で私は頑張ってきた、だから悪くないし、正しいのだ、
私のいうようにしてください、と思っているみたいです。
結局のところ、自己価値が低いのだとは思いますし、だからこそ、
大声で「私は正しい!!」と主張したくなっちゃう。
自己価値が低いから、逆に資格装備したかったんだなーと思いました
(もっと若い頃)。
別に悪くたって(というか、人に何か言われたとしても)いいのだ
と思えれば、他人がどう思うかは全く気にならないのでしょうけれども、
批判(という言葉が適当かはわかりませんが)されるのがとても嫌。
なので、そうならないように沢山の「べき」を抱え込んでいるんだなー
と思います。
そもそも、自分が「文句言われた、批判された」ということ自体が、
実際そうではないこともあるのだと思いますが、
どうしても反応してしまう・・・。
そういうときはしっかり見つめてあげます。
とはいえ、少しはその「べき」とか「こう思われたい」が
取れてきた部分も感じています。
本当にちょっとしたことで、例えば、
家に人を呼ぶのがあまり好きではありませんでしたが、
今はそうでも無くなりました。
私はちゃんとしていると思われたい、
家も綺麗にしている人だと思われたい、
良き妻はこうあるべき、という思いが強かったのですが、
あまりなくなったおかげで、多少散らかってても、
「どうぞどうぞ、入ってください」と
ペットボトルの緑茶を出せるようになりました。
(人に出すお茶は葉っぱからきちんと出したものではないと、
と思っていた)
もしくは何も出さないことに引け目を感じなくなりました。
すると、なんと気持ちの楽な事・・・。
別に「できない」と言ったってなんの問題もないんですよね。
「なんだっていい」だなんて、なんていい加減な、と思ってましたが、
それで全然良いし、私はこれで自分が楽になると感じるので
それを選択したいと思います。
自分が発していることが返ってくる、についてはまた面白いことが。
うちは犬がいますが、もう一頭子犬を迎えようかという話が持ち上がり、
子犬だからまとわりついたり、噛んだりするということで、
それに先住犬がどう対処していけるのか・・?
多頭飼いはどうなんだろう、と不安に思っていたところ、
「そうだ、ほかの犬への態度ならドッグラン行けばいいんだ」と思いつき、
早速行って、ランであそばせてました。
すると、あちらの方からなんとうちの子と同じ犬種が2頭
やってくるではありませんか。
ランに入ってきたのでよく見ると子犬、多頭飼い!
飼い主さんにこの犬種の多頭飼いについて
少しお話聞くことができたのです。
特によくいる犬種ではないし、
しかも子犬が来るってそうそうないのですが、
偶然じゃないなーと感じ入りました。
また、失敗すらも必要なことで・・・という感想の話ですが、
感想を送った後、ふと、「むむ、よいも悪いもないなら、
失敗という概念も勝手に失敗と思っているだけで、
本当はそもそも失敗などないのか?」と思ったのですが、
やっぱりそうですよね。
やってもやらなくてもいい、というのも、良い悪いはない、というのと
同じなんだと思いますが、「正しいピン!」なのかどうか
わからないことも多いので、とりあえずやってみようと思っています。
「なんかこれって、もぞもぞ嫌な感じがするからやめておこう」
というのも閉じこもりの一種なのか、
本当にやらないほうがいいというメッセージなのか
判断がつきかねるのです。
おまけに、一生懸命思考して、こうなったらこうで・・・と
シミュレーションしてどれがベストか導き出そうとしてしまう。
私の場合、「やらない選択」は「閉じこもる」選択
なんじゃないかと思うのです。
失敗(とエゴが思う失敗)が怖いから。
人生、無駄なことは一つもないし、起こることは必然。
そう思うとなんかわくわくしてきます。
そしてオールを漕ぐのをやめてみようと思います。
思考に走りがちですが、
自分がコントロールする枠から外れてみたらどうなるかみてみます。
以上が昨日までに書いたことです。
ここからは今書いたものです。
今朝散歩してて、ちょうど家につこうというころ、
自己価値が低いということが頭に浮かびました。
被害者意識やコントロール欲の元であろうものです。
だから強がってきゃんきゃん言って自己主張しているのだと思いました。
(他の犬を見て、「犬はきゃんきゃんいう犬もいるなー」と思って
自分を重ねた・・?ちなみにその犬はきゃんきゃん言ってませんが)
そこで、またふと、なぜか、私は無条件に愛されているのだ
ということが心に浮かびました。
私が生まれた時には母も父も祖父母も喜んでくれて、
何もできない(赤ちゃんだから)私をあたたかく見守り、
愛してくれていたんだと思い出しました
(思ったというより思い出したという感じ)。
胸の中がぐっとなって、涙がこみ上げてきました。
主人も同じで、私のある条件によって結婚したわけではなく、
ある意味無条件で愛してくれたわけです。
そして、私自身が分離していると直感しました。
私自身が私を愛せず、価値がないと思い込み、強がって戦ってきました。
そんな必要は全くなく、別にこのままで十分、
武装する必要なんて、
人にいいように思ってもらえるよう振る舞う必要なんてないのだ
という何かが流れ込んできました。
思った、とかじゃなくて、うまく表現できないですが、
内側からうわーってきたのです。
私は愛されているのだという思いがうわーってなって、
涙が止まりませんでした。
外は寒かったけど、あったかくて丸い感じ。
なので家に着いてから、わーわー泣いてみました。
なんだかとってもあったかい涙だと感じました。
以前、「愛されていたのにそれを忘れているだけ」
という話を伺った時には、
確かにそうなのかもしれないと頭で思い出したような、
理解したような感じでしたが、
今朝、なんでもないこの時に、それを実感することができました。
おきてくる時にはおきてくるのですね。
泣きたい時にはたくさん泣きます。
心にあるあったかいものも十分感じます。
怒りなんて溶けて行きそうなくらい、丸くてあったかいです。
今回の宿題をやってみて、まず感じたのは、
すでに前回の宿題をやっている時点でわたしは、知らず知らずのうちに、
考察しながらやっていたんだなと気がつきました。
やる必要もないことを、ぐるぐると頭で考えることが
ずっと習慣になっていたんだなぁと。
ここで気がつくことができたので、これからは、
余計なことをぐるぐると先回りして考えるのはやめよう!
手放そう!と決めました。
そして、宿題の中でみつけた15個のさまざまな枠についても、
わたしは全部手放すことを改めて選択しました。
ぜーんぶ手放すと決めると心がすーっと、とっても軽くなりました♫
また、枠についてノートに書き出す作業をすると、
より客観的にものごとをみることができ、
新たな気づきがいくつかありました。
それは、家族などのより身近な人に対しては、無意識に
相手をコントロールしようとしている自分がいること、
状況や種類は異なるけれど自分がそうしたくてもできていないことを
他の人がさらっとできていたりすることに対して、
自分が勝手に過剰反応していること、
自分自身の作り上げた世界の常識によって自分を苦しめていること…
などです。
前回の宿題の内容について、
今回の宿題で時間を少しおいてから、考察してみたことで、
冷静にものごとをみることができました。
今回、気づいたことについてもわたしってそうなんだ、
そういうところもあったんだなぁと、
ただ、ただまるごと受け入れることが不思議とできました!
だからどうしようとかを考えずに、受け入れるだけをできたこと、
そのことが1番自分で驚いています。
自分の枠を取り外し、選択し直す。
やっぱり前と同じものを選択してしまうなぁ。
でも、今度はやらされている感?息苦しい感?が
なくなったような気がします。
だって、自分で選んだ道だから。
いろんな枠がありますが、親からいい子だと思われたくて親の枠を
そのまま継承したり、いい人だと思われたくて世間一般のいい人は
こうするだろうという行動を枠にしていたりです。
また選び直した枠は自分でこうするのが気持ちいいから感じたもの
がほとんどでした。
実は最近、常識とはなにかというような、まさに”枠”ではないか
というようなことで彼と口論が勃発していました。
一例を上げると、喪中について。
喪中でもめることなんてあるの?と思われるかもしれませんが、
そこは背景がいろいろとあるので、おいておいて。
近親者の喪中は13ケ月だと言われて、私は???となりました。
私の常識では1年だったからです。
なぜ13ケ月?と聞いたところ、喪中ってどのくらいの期間なのか
常識的にはどうなんだろうと自分の知識が不確かだったので
ネット検索で調べたそうです。
私は初耳だったので、私も検索しましたがキーワードを
「喪中」で
調べると13ケ月なんて情報は出てきませんでした。
「喪中 13ケ月」
とキーワードを変えたら出てきましたが。
それでも絶対に13ケ月が正しいというわけではなく、
いろいろな説の中の一つであるということがわかりました。
結局お寺に聞いたほうが正解を得られるのではと思い立ち、
確認したところ「浄土真宗には
喪中はない」が正解でした。
ネットの中のいろいろな情報の中から見つけた一つを
彼は自分の常識
として取り入れ、
私はなんとなく生まれ育ってきた環境から得られる
体験などから
それを常識と思っていたのですが、お互いに間違っていたのです。
間違った情報を元に口論(というほどでもないですが)していたこと
に気づきましたが、彼はそれまで信じてきた
(とは言ってもこの
約1年だけですが)
13ケ月説を変えようとはしませんでした。
だからどうしたというわけではないのですが、
常識ってなんだろうと
思わずにいられない出来事で、
こういうことが最近頻繁に起こります。
何かに気づきなさいというサインなのかなと思いつつ、
毎日を過ごし
ています。
宿題の15個の枠は知っている人だけでカウントすると
ほぼ夫婦間の枠でした。
知らない人とのドラマもそうですが、
私の「べき」や「あたりまえ」で展開される摩擦ドラマばかりです。
どこが問題なの?というようなことで摩擦(ドラマ)が起こり、
もやっとしたりイライラしたり、、。
改めて見直してみると、自分で作った枠や自ら参加した枠のドラマで
右往左往しているだけなんだなと気づきました。
夫とのドラマが多いのは
接する時間が長いのもあるかと最初は思いましたが、
家族への「べき」が多いんですね。。
同じように長く過ごす職場のドラマは以前ならあったと思うのですが、
今回の宿題タイミングではありませんでした。
講座でもあったように、
枠によって役割を変えているのもあると思いますが、
今の私は夫がテーマなのかなと。。
そして私の「べき」と「コントロール欲」は夫の方にばかり
向いているんだなと気づきました。
また、枠を意識して生活することで、視野も広がり、
感情に振り回されなくなるのではと思いました。
最終的に夫婦や友人自体の「大きな枠」は
手放したいとは思わなかったので改めて選択し直しました。
その中の細かな枠は手放したいものだったので
手放す宣言をしてみました。
手放す宣言をする時は、こみあげるような感覚になるものもありました。
一度夫婦や友人自体の大枠すべてを手放すことを
なんとなくイメージしてみたのですが、
ほんの一瞬宙に浮いて空が見えたような、
パーッと開放された感覚になり「?」となりましたが、
すぐさまぐっと引き戻されました。
一瞬にしてに戻されましたが不思議な感覚でした。。
あとこの宿題をしている間に、
宿題と同じ枠のドラマが新たに起こってきましたが、
(主に夫婦のドラマです。)
その時にわいてくる感情を感じるようにしました。
感情はこれからも丁寧に味わうように心がけますが、
その時また手放したい枠なら改めて宣言をしてみようと思います。
ドラマに参加しないこともできるのだから、
自分には必要ない枠やドラマならば外すよう意識していきたいなと思います。
あと宿題からずれますが、感想へのレスポンスありがとうございます!
放ったものを受け取るお話、
拙い文章から完璧に読みとってくださっていました!
まさにその通りです(泣)
よ〜くわかりました。。
ありがとうございましたm(_ _)m
同じようなドラマはまだまだ日々起こってきますが、
こういったことを全く意識して生活していなかった
1年くらい前の頃を思い返すと、
パラレルワールドじゃないですが、自分も周囲の在り方も
全く違ったところにいるような感覚になります。
どちらが良いということではないと思いますが、今の方が好きです。
ふと湧いた感情に嫌気がさす時もまだまだありますが、
逃げずに丁寧に味わっていきたいと思います。
次回の講座も楽しみにしています!
よろしくおねがい致します。
枠を手放す宣言後の反応は、前回同様身体の各部位に反応が出ました。
基本的にはすーっとして楽になる感じが多かったです。
首、肩、顎から力が抜けていく感じ。
また歯茎からすーっと力が抜ける時もあったり、
歯ぎしりの状態がしばらく続いたり、歯茎から力が抜けた瞬間
全身がすーっと力が抜けたり。
頭に出るときは頭の中でぐるぐるしている感じがしました。
あと面白かったのは鼻に反応が出るとき。
鼻の頭がむず痒かったり、鼻の周りが熱くなったり
不思議な反応が出たように感じています。
手放した後にもう一度引っかかり、枠を確認すると、
過剰な反応はほぼなく、落ち着いて枠を確認出来ていました。
自分で作った枠を身体の中に埋め込んでいて、
その枠に引っかかると反応や痛みが出るのかなーなんて思いました。
この講座を受けてから、日々の中で
思考と同一化している事が多いなと感じる機会が増えています。
これはマインドだぞと意識する自分が芽生えてきたように感じています。
また私は物事が起こる前から、ネガティブに考え過ぎ、
また悪い出来事が起こったら衝撃的に受け止めてしまう癖があるのが
改めて解りました。
講義の中で引き寄せの法則を学びましたが、
私がネガティブ思考をしっかり引き寄せ出来ているなら、
私はもうこの世にはいないでしょう(笑)。
でもそういった思考の一部は引き寄せて、クリエイトして
嫌な思いもしているんだろうなと思いました。
講座で学んでいることの理解を深めつつ、
日々の中で気付きながら続けて行きたいです。