友達でダンサー&振付家のマコちゃんこと康本雅子ちゃんが
振り付け&出演している大人計画「業音」を見に行って来ました。
京都に行く度に家に泊めてもらってるんですけどね、
ホントお母ちゃん大変!休む暇なし!って感じで、
二人でゆっくり話す時間はほぼなく。(笑)
そんな中これだけの仕事をこなすって、尊敬しかありません。。
2012年の「絶好わる子、ポンッ」以来なので、5年ぶり?
二児の母とは思えぬ、
相変わらずの色気のある美しい動きでしたねぇ。。
マコちゃんのダンスはすごく個性的なんだけど、
どんな動きをしても、下品にならない。
なんか品があるのです。
芝居が終わった後、楽屋裏で
「芝居の中にあっても、マコちゃんのダンスはすごく目をひく。
見入ってしまった。ダンスがあるから、アートになってた。」
って言ったら、
「それはまゆちゃんが私を知ってるからじゃない?
普通の人は、そんなに見てないよ〜。」
って言われたんだけど、
まあそうだよねぇ、、確かに
芝居に没頭してたら、あんまり見ないのかもしれないけど。
でもたぶんそれだけじゃなくて、
私は今回のマコちゃんの「踊り子」という役柄が、
いわゆるシェイクスピア劇におけるピエロ(道化師)に近くて、
立ち位置としても好きなんだなぁ… って思ったのです。
この、立ち位置について、思うところがあったので
ブログに書きたいなと思い、マコちゃんに
「ブログに写真使ってもいい?」って聞いたら
「全然大丈夫だよ~!まゆブログに載るなんて光栄やわ~。」
って言ってもらいました。
マコちゃん、ありがとうぅ♡
で、立ち位置のお話。
ピエロと一緒でね、
踊り子は、ずっと傍観者だったのです。
完全にはストーリーの中に埋没してないのね。
舞台上の役者さんたちとは絡むんだけど、
ストーリー上では絡まってない、っていうか。
業まみれの登場人物たちと違って、
まみれてないし、フラット。
一定の距離がある。
舞台の上にはいるんだけど、
観客席の私たちと同じ立ち位置で舞台を眺めている感じ。
いや、観客席にいても
ストーリーにどっぷり浸かってる人もいるだろうから、
そういう人はある意味、舞台に上がっちゃってるんだけどね。
この構造ねぇ、
この3次元の人間世界で、
自分をどこから見るか?と同じなんです。
私たちは、舞台上の役者みたいなもの。
与えられたストーリーを、
泣いたり笑ったりして体験しています。
感情と思考に振り回されて、
いわゆる自我(エゴ)メインで生きてる時っていうのは
ストーリーにどっぷり浸かっているので、
自分が役者であることには気づきもしません。
それだけが自分という存在の全てだと、
思い込んでいます。
でも、手放しが進んで、
自我の部分がどんどん剥がされていくと、
観客席からストーリーを眺められるようになって来て、
自分が舞台上の役者であったこと、なおかつ
役者だけの存在ではなかったのだ!ってことに、気づき始めます。
そして
さらに奥を観れるようになっていくと、
観客席でもなく、
監督席に座る感じ、ですねぇ。
まあ、言うのは簡単なんですけど。
私もまだ、
監督席へシフトする途中、って感じかな。(笑)
完全に監督席に着席したら、
人生反転ですね。
夏至からの感情デトックス祭りも
そのためには必須プロセスだったし、、、
(人間やってる限り、感情の学びはスルーできないようになってるんですよねぇ。。だから、まずは未消化の感情を消化することから!なのです。)
それを経て、さらに
自分の観念に気づいては手放す、の
自分剥がしをする日々の中におります。
これをしてる時の私は「踊り子」の立ち位置なので、
こういった舞台も、役者に感情移入とかじゃなくて、
もはや「踊り子」目線で見るのが
一番落ち着くのでありました。。
ストーリーにどっぷりも、
ドラマティックでそれはそれで味わい深いものですが、、
それこそ3次元人間世界の醍醐味!でもありますが、、
ぼちぼち監督席からも自分を垣間見れるようになった今、
どうも監督の自分は「そこから出ろ!」って言ってるぞ、
っていうのが分かるようになり。。
そのための出来事、流れがどんどん起こるので、、
役者の私はもう抵抗する気もなく、
ただただ受け入れ、委ねるのみ。
展開するに任せています。
・・・芝居とは直接関係ないのですが、
マコちゃんの「踊り子」から、そんなことを思ったりしてみました。
来月は、同じくダンサーで、昔一緒にお仕事させてもらった
鈴木美奈子ちゃんが出演する百鬼オペラ「羅生門」も
見に行く予定。
こちらもかなり面白そうで、楽しみです♪
☆「気づきのヒント まとめ」はこちら。
☆感情の適切な扱い方を学ぶ「セルフケア講座」はこちら。