【お知らせ】
2024年12月31日から2025年1月2日まで、年末年始のお休みとさせていただきます。
12/6(金)ZOOMでディープな?お話会vol.8〜たまには恋愛の話でも。【12/15まで録画視聴可】、お申し込み受付中。詳しくはこちら
12/5(木)12/11(水)夜に、寒暖差アレルギーのための遠隔ゼニス、お申し込み受付中。詳しくはこちら
12/8(日)15(日)21(土)夜に、遠隔でゼニスレベル1の48種の浄化、全部受け🌟(バラも可能)、お申し込み受付中。詳しくはこちら
2025年1月より、RAS認定ファシリテーターの更新制度が変更となります。ファシリ講座の受講を検討中の方は、お気軽にお問い合わせ下さいね。

【リトリート】
2025年も2/5(水)〜9(日)4泊5日で、なおちゃんとクジラを見る🐳屋久島リトリート、お申し込み受付中。3泊も応相談。お気軽にお問合せ下さい。告知はしてませんが、以前の告知のこちらを大体の参考にしてくださいね。
リトリートのリクエストは、場所や時期にもよりますが、宿などが取りづらいので、少なくとも開催の2ヶ月前、できれば3ヶ月前 にはいただけると嬉しいです。

【ゼニスオメガヒーリング・プラクティショナー養成講座】
2020年より『マスターティーチャーのみ』ZOOMでのオンライン授業が可能になりました。詳しくはこちら。テキストを事前に送る都合上、開催1週間前には受付終了とさせていただきます。2023年4月より対面授業も再開しますが、オンラインの方が人数は集まりやすいです。

レベル1〜5まで、ご希望に合わせて随時開催中です。他校からの生徒さんもどうぞ。お気軽にお問い合わせ下さい。授業内容について詳しくはこちら

RASセルフケア講座に関するQ&Aはこちら。(受講された方へ)

2021/12/19

日々と宇宙の講座ベーシック3回目の、皆さんのご感想


12/12に3回目を開催しました、4回連続の

そのご感想を、受講生同士が読み合えるように、
そしてそこからさらに気づいたり、深められるように、
またここにシェアさせていただきますね。☺️


ただ、毎回、文中に、私がこう話していた、とか
こういうことを学んだ、と言ったことも書かれてはいますが、
それは、2時間半かけて私がお話ししていることのほんの一部であり、
各自のフィルターを通した切り抜きであり、全てではないため、
本当に伝えたいこととはニュアンスが違ったりすることも、あります。


難しいことを言っているのではないとわかってはいても、
迷路に入りこむような感覚(適切な表現が思い浮かびません)
になってみたり。。 

と書いてくれている方もいらっしゃいますが、
それは、私が真逆のことを同時にお伝えしたりもしているから、
でもあるんです。☺️
煙に巻いちゃう感、があります。😂


毎回2時間半かけて話して、さらに宿題の中で、
日常を通してご自身の中に落とし込んでいただき、
それを4回、4ヶ月かけてやって、
それでようやく、ベーシックが終了する、ということには
相応の意味がありますからね。

これがベースにあって、やっとこの先にお伝えできることがね、
あるんですよ〜✨


なので、何度も書きますが、受講生以外の方は、
そのまま受け取るとズレることもありますので、
断片であることはご理解の上、

でも、私だけでは伝えられない、
共感ポイントや、ヒントになったり、何かのスイッチを押されたり、
気づきを促されることも、たーくさん詰まってますから、
ぜひ読んでみてくださいね❣️



第三回⽬の講座は,途中で意識が途切れがちで,
意欲がないのかノートも隙間 だらけでした。
その後,また,聞きながら,抜けたところを埋めていきました。 

とっても濃い内容で萬⼣さんの⾔っていることは分かるけれど,
また,腑に落ちるまで時間がかかりそうです。
でも,焦らないと決めたから,のんびりしたものです。
これは,せっかちに突っ⾛りやすい私にしては,なかなか良い傾向です。 

今回,⼀番引っかかったのは,「権利と義務」の話です。 
「権利と義務で⽣きている⼈がたくさんいる」という萬⼣さんの⾔葉に,
私のこ とじゃないか・・・ドキンと反応しました。 

⼦どもへの対応なのですが,
「〜すべき」をかなり押し付けて育てていました。 
次男が⼩学校3年⽣の時,「お⺟さん,僕は,学校で先⽣に,
『こうしなさい』と ⾔われ,おうちではお⺟さんに先⽣みたいに
『こうじゃなきゃだめ』。と⾔われ, どこでゆっくりしたらいいの」
と泣かれました。 
私は,「こうすべき」「〜でないと」が強かったので,
「⼦どもを⾒守る」というよりも,
「しっかりしつけて恥ずかしくないように育てないと」
が勝っていたと思います。 
確かにしつけは⼤事ですが,私は,
⾃分が恥をかきたくないという思いから,
⼦どもをしっかりとしつけたいと考えてそうしていたと思います。 

それから,記念⽇を忘れられる事件も反応しました。
私からしたらありえない です。なぜかというと,
「私のことを⼤事に思っていないのね」が発動するから です。
⾃分の⼈間性を否定されたような気持ちになります。

過去に⼀度,夫は結婚記念⽇を忘れたことがあります。
帰宅してから気づいて慌てて花束をプレゼ ントしてくれました。
夫は,その当時仕事がとても忙しくて,
毎⽇を過ごすのに 精いっぱいでした。私は,
「この⼈,結婚記念⽇を忘れるなんて,私は愛されていないに決まってる」
そこまで考えていました。
夫は,そんなことは思っていなくて,だからこそ
慌てて花を買いに⾏ってくれたのですよね。 
今年の私の誕⽣⽇のことです。

⻑男夫婦宅で数⽇前にお祝いをしてくれたので,
誕⽣⽇当⽇は,特になにもなしでした。ここ5年ほど
⼼に嵐が吹き荒れて誕⽣⽇をお祝いされること⾃体苦痛でした。
それを夫に伝えていたので,夫も私の 誕⽣⽇は,
あまり刺激になるようなことはしないと考えてくれていました。 
そして,その嵐のような感情もだいぶ収まった今年,⼆⼈だけの⼣⾷は,
ふだんと変わらない品数少なめの⾝体にいい⾷事でした。
しかも,⾷事は,夫がいつも作ってくれています。 
(なんだ,ずいぶんと愛されているじゃないか!!!) 

以前の私なら静かに怒っていたと思います。でも,今年は,
特に怒りもしなければ,あきらめの感情も沸いてきませんでした。
無理をしてよい⽅向に⾃分の考えを向けることもしていません。
ごく,⾃然にこの出来事をとらえていました。 
こんなふうに考えられると,気持ちが穏やかでいいです。 

今朝,⾬の⾳を聞きながら⽬が覚めて,
温かいミルクティーを飲みながら,
ガスファンヒーターの温かい⾵に吹かれていたら,涙がこぼれてきました。
これは, たぶん幸せな涙です。

ただ,ここにいてその場がとっても⼼地よくて,
誰からも 攻撃されないどころか,安⼼感のある場所でぼんやりできる
そんな幸せを感じていました。
こんなふうに幸せって追い求めなくても,
その辺にポロッと転がっ ているのですね。
探すというより,気づく感じで可愛いです。 

またまた,感想というよりは,⻑い⽂を書いてしまいました。 
次回は,いよいよ最終回です。
わからないことをそのままにして,あとで,
「あ 〜っ,これかーーーっ」というのを楽しみたいと思います。



「嫌なこと言われた、そんなこと言われたら誰だって傷つく」
というのは自分でネガティブな意味付けをしているという話は、
ちょうどまさにそういうことがあったので、
なるほど・・・と思わずにいられませんでした。 

それは主人との会話の中で起こった事で、
おまけにゴルフ中のことだったんですが、思わず
「そんな失礼なこと言わないでよ!」と声を荒げてしまったのです。
主人にいくら「そんなつもりはないし、そういう風に思うのは君だけだ
(あ、「君」とは呼びませんが)」みたいなことを言われ、
「そんなことない!誰だって傷つくし、そんなの失礼だよ、ひどい!!」
と返してしまったのですが、
それこそが私独自のフィルターを通してたんですよね・・・。 

(一応、発言について書いておきますと、
私がうったパッドが短すぎて入らなかったんです。が、打った瞬間
「そんなんじゃ全然ダメ」といわれたんです。で、反応してしまったのでした。) 

とはいえ、
言い方をもう少し気にしてくれても良いのではとも思っています。
例えば、「あー、ちょっと弱かったねー」とか。 
言い方によって受け取る人の感じ方が違うのでは無いかと思うのです。
私は主人がどんなに下手くそなショットを打ったとしても、
「全然ダメだったねー」とは絶対言いません。何も言わないか
「あー、ちょっと右だったねー」とかくらい。 
でも、もし「全然ダメ」と言ったとしても、「あー、そうだよなー」
と言ってクラブをぶん投げるくらいで、私に対して
「そんなこというな!失礼な!」とは言わないだろうなーとも思います・・・。
(聞いてないので想像) 

絶賛分離中です・・・。 

もっとも、人を傷つけるのを恐れている人は、自分が傷つきたくない人
というのは、まさに私でして。 
自分が持っている傷を見てあげることが必要ということですが、
先に書いたような出来事(気づかせるために起こって来ている)を通して、
湧いて来た感情を感じればよく、その傷はどこからのものなんだろう
とかは考える必要はない、と理解しています。あってますか・・? 

で、私は強い「人を傷つけてはいけない、不快にしてはいけない」
というのを持っているのですが、
「人を傷つけてもいい」と言ってみたところ、意外なことに、
思ったより平穏な気持ちでした。波立たない感じ。 
本当は傷つけてもいいと思っているから、ということなんだろうかと、
講座を聞き直してて思いました。
(人に迷惑をかけてはいけない話のところ) 

 で、もう一つ、日常生活で感じたこと。 
ここ数ヶ月でまた以前やってたスポーツ始めて、
どうしても上手に出来ない事があって(昔からそれは苦手だった)、
Youtubeとか見て研究してたんですけど、ふと
「私は本当は上手に出来るのに、できないーって悩む体験をしたいから
こうなっているのでは。ならその体験を存分にしてみよう」と思ったら、
なんか上手にできないことも楽しく感じられるようになりました。
本当、問題は問題じゃないってこういうことなのかなーと思いました。 

でも人に馬鹿にされるように感じると激しく反応するので、
しっかり見てあげることにします。 

ゴルフも今考えると、事実を述べられただけで
別に馬鹿にしようとして言ったわけでも無いのだろうとは分かりますが、
「反応」しちゃったのですね。。 

まとまりなくなってしまってすみませんが・・・
本当は人を傷つける言葉なんてないってことでしょうか・・・・
受け止める側の問題だし、私が
「こないだあんなこと言って、傷つけちゃったかも」と気にするのは
私のフィルターを通して思ったことであって、
相手は全然気にしてないかもしれないし、逆に、相手が
「あんなこと言われて・・・傷ついた」と思っても、
それはその人の問題であるから。 
傷つけちゃったかも・・・と私が気にするのは、
私が傷つくのがやだからというのと、人からいい人と思われたいから
というだけなのかも。 でも本当に傷つけてたら申し訳ないし・・・
とぐるぐる巡っておりますが、申し訳ないという気持ちもすべて
昔負った傷を持った自分自身へ向けたものなのかな・・とも思えます。
ちゃんと寄り添いたいです。



自分の脳ファルターを通して世界を見ているのだから、
自分の世界は自分の選択や認識次第なのだ、
ということをお話し頂きました。 
何か引っかかる出来事が起こった時に、「問題」がある訳ではなく、
それを「問題だ」と認識している自分がいるだけなので、
自分の認識を変えれば良い。又は選択をし直す。 
それは「全て自分である」と自分の世界の全てを引き受ける、責任を持つ、
ということに繋がっていくことであって、
ここが、この統合の学びの上での、つまずきポイントである
というお話しがありましたが、まさに、
私がずっとつまずいているのが、ここです。 

無意識の抵抗なのか、講座の録画を見直している時、
気がつくと自分の分離体験のことを思い出していました。 
「いけない!萬夕さんの話しを聞かなくちゃ!」と、集中しようとしても、
また気がつけば自分の分離体験のアレコレを考えていて、
録画を少し前から遡っては聞き返す、 ということを
何度も繰り返してしまいました。 

講座の中で「枠」「マイルール」の例として挙げられていた
他人の既読スルーだとかは平気なのですが、私の「枠」は、現在、
もっぱら職場の1人の女性によって発動しています。 
別バージョンの自分だからこそ、過剰に反応しているだけだと思っても、
含められず分離したままでシンドイです。 

前回の宿題で、
一度「枠」を手放すことを宣言してみた時の爽快感を思うと、
本当は手放したい。
手放せれば、自分の世界を解放し、広げることにもなるのになぁ、
と分かっているのに、すぐに反応してしまう。 
そんな自分の内側に寄り添ってあげるコツを
少しはつかんだような気がしたのですが、
いつも上手く出来る訳ではありません。 
自分を丁寧に大切に扱ってあげることが出来ないから、
別バージョンの自分である彼女のことも
含めてあげることが出来ないのだろうなぁ。 

最近よく、映画『沈黙』(原作:遠藤周作)に出てきた
キチジローのことが思い浮かびます。
キリシタンが激しい弾圧を受けていたその昔、
保身の為に何度も信仰を捨てたり人を裏切ったりするのですが、
それでも信仰を捨て切ることが出来ず、自分が裏切った宣教師の前に
何度も現れては救いを求めるという人物です。 

何度も手放しや自分の内側に寄り添うこと、
自分の世界に責任を持つことにチャレンジしては、やり遂げられない自分は
キチジローみたいだな、と思います。 
キチジローなんてカッコ悪いけど、
キチジローなりの切実さがあるのですよね。 
すぐに反応してしまっても、腐らず諦めず、
引き続き自分の内側を見ていこうと思います。



自分の選択が自分の世界をクリエイトしていると受け入れることが
責任とのことですが、嫌なことに対峙したときに
やはり自分のせいじゃないと 考えたり、相手が○○だったから…
みたいに思うことが多いのでそこはしっかりと
受け入れられる様にしたいです。 

出来事自体が問題ではない。という言葉も胸に響きました。
出来事をどう解釈するか受け止めるか…、
自分のフィルターによって善悪優劣をつけて、 
問題にしてしまっているのですね。

特に私はやる前から悪くなるような予測をし、
どうしよう…と不安でいっぱいになってしまうので…、
自分で問題を 複雑にしてしまっているように思います。
出来事を一方からだけでなく、違う角度からもみて
自分の今までの持っていた枠に気付き、含んでいきたいです。 
不安になり過去の経験から
これからこうなるだろうと決めつけておきながら 
結局何も無かったという事が物凄く多いし、労力の無駄なのと、
その事象にエネルギーを与えるとは正にこのことだなと思いました。 

人を傷つけるのが怖い=自分が傷つくのが怖い。
傷つくのは怖いのは間違いないですし、
傷付けるぐらいなら傷つけられた方がまし、
という思いもありますが、 同じことなんですね。 
傷つけないように生きるのは意味がない。もったいない。
完全に傷つけないのは無理。たとえ話の中であった、
褒め言葉のつもりで言ったのに人によっては傷ついたり、
ただ子連れで歩いてただけで、妊活中の方がそれを見て傷ついたりとか…。
キリが無いですね。
日々の中でやはり周りの人を傷つけないようにしようと思っていますが、
完璧には無理なんですね。 それも自分の枠になってしまいますね。 

講座を受ける週に私が実体験したのですが、
仕事の会議で批判を受けるのを覚悟で発言せざるを得ない場面があって、
それに向けて事前に感情消化を行ったりして臨んだのですが、
やはり自分の発言の直前になると、緊張し心臓バクバクになり、
どうしようもない状態になってしまった時に、
「これは私ではない」と心の中で聞こえて、そしたら
だいぶ落ち着いてゆっくりはっきりと自分の発言が出来たのです。
発言の後の質問攻めにも落ち着いて対応出来たのです。
とてもびっくりしました。

そして今まで自分が自分自身だと思っていた自分は、自分ではない。
マインドだと気付きました。
今まで私がこういう私だとしがみついていた私は私では無かったのです。

萬夕さんの講義で聞いていた事を実体験出来たのは非常に大きかったです。
私の全てが変わって行くような気がしました。 

その後も日々の生活の中でマインドに同化しつつも、
その時にはこれは私ではないと思いつつ、それは誰なのかと質問し、
なぜ不安なのかなぜそう思うのか考え、他の考えや方法はないのか
と考えて思考を見つめていると落ち着いてくる自分がいます。

まだまだ同化しまくってますが、あの感覚を思い出して眺める事で
少しずつでもマインドからセルフに移行していきたいです。
ホントにマインドだらけだなーと思いますが、
覚悟を決めて全てを味わうと決めて過ごして行きます。
ちょうど誕生日前にこの事が起こったので、良い節目だなと思っています。



今回の3回目の講座を聴いて、 1番心に響いたのは、
人を傷つけないように生きることは、意味がないということです。
というのも、人をいくら傷つけないように自分が気をつけていても、
受けて側がどう感じるかによって
同じ言葉、行為が全て変わってしまうからです。
そうであるならば、いちいち人のことを考えて
自分の発言や行動を変えることは、本当に無意味なことだったなぁと
今は心底感じています。
また、同時に人は人なので余計なことを考える必要もないんだなぁ
ということもわかり、すっきりというかさっぱりした気分になりました! 

そして、責任についてのお話では、
自分が自分の世界をクリエイトしていることに対して
受け入れて責任を持つこと、その中での手放しについてを学びました。
これからの日常生活の中において、自分のフィルターの世界に
まず責任を持つことに専念してみよう、意識を向けてみよう!と思います。

今までは、なぜか家族などの近い関係の人に対して、
ついついコントロールしようとしている自分がいました。
まゆさんが、そもそも手放すことは、その要素を自分が持っていて、
それに気づいて初めて手放すことができる!とおっしゃっていました。
なので、自分がコントロールしていることに気がつくことが
なんとなくできているので、もう少しでコントロールすることを
手放すことができるのかも!と思うと嬉しい気持ちになります。 

加えて、わたしは自分が選んだ会社や仕事に対して、何かあるたびに、
ついつい会社の体制や同僚などの愚痴を言っていました。
知らず知らずのうちに、自分が選択をした会社や仕事に対する責任を
すっかり忘れていました。
就職が決まったとき、嬉しくて泣いて喜んでいた仕事を、
今はやらされているとばかり思い、ストレスばかりで楽しくないなぁ
と感じている自分がいました。

でも、この仕事を選んだのは自分でした!
頭をどっかーん!と殴られたような衝撃でした。

本当にこの仕事や会社が嫌であれば、違う選択をすれば良くて、
それをするのは自由です。
その覚悟もなく、甘えていたんだなぁと思います。 

話しは変わりますが、この講座を受けて、たくさんのことを学びながら、
最近、少しできるようになったことがあります! 
それは、ただただ自分の感情に寄り添うこと。

今までは、何かあると出来事に注目をしていたので、
感情が溢れて元の精神状態にもどるまで時間がかなりかかっていました。
今は、出来事や人ではなく、自分のそのときの感情に、
ただただ寄り添って抱きしめてあげることに専念をするようになりました。
そうしたら、びっくりするぐらい
クヨクヨ、メソメソしている時間が短くなりました!笑 
それだけでも、この講座を受けて本当によかったぁと思っています。 
ありがとうございます。 
最後に、次回のラスト講座もよろしくお願いします!



3回目の講座もとても濃く面白かったです。
動画と音声それぞれ聴き返してみましたが、
聴くほどに奥深い内容だなと感じました。 

難しいことを言っているのではないとわかってはいても、
迷路に入りこむような感覚(適切な表現が思い浮かびません)
になってみたり。。 ただ今は「頭で理解しようとすること」は
意味がないんだなと実感しています。 

講座の内容は、自分にあてはまるなあということが色々ありました。 
まず人を傷つけないように気にしすぎることはあまり意味がないよ
というお話。 
確かにたいていの人は知らぬ間に人を傷つけているものですね。 
自分もそうだなと改めて気付かされました。 
また「傷つけないのは自分が傷つきたくないから」は、
まさに自分に当てはまることだなと、はっとしました。 

あとは「自由と責任」「義務と権利」の中で色々していただいたお話も
面白かったです。 
自分の責任の範疇を超えて相手を背負いこむのはNGということ。 
相手を解りたいなら自分の世界を広げるいうこと、など。。 

感謝される権利についても、
例えば夫はありがとうをめったに言わないのですが、
何でこの人はお礼を言わないんだろうとずっとモヤッとしていました
(最近全く気にならなくなりました)。 

あと今人から頼まれてやっていことがあり、
仕事としてではなく好意でやっているのですが、もし
「ありがとう」を言われなかったとしたら「もやっ」としてしまうかな。。
と思いました。 権利を主張したくなっている自分に気付かされ、
うわ~〜っとなりました(笑) 

あと自由と責任について考えていたら、
あの時あっちを選んでいたらどうなっていたかな、と思う
人生の分岐点が3回ほどありそのことを思い出しました。
その分岐については今回だけではなく折に触れ思い出すものです。 
後悔していないつもりですが、完全に受容できていたら考えないのでは?
と思いました。 まだ責任をとりきれていないんだなと思いました。 
でも今回の講座で、自分で選択したんだな、
そして決まっていたのかもと思えば、何かのせいにすることもなく
手放すことができるかなあと思いました。 

他者を分析することは人にせいにしていることと同じというお話も
なるほどなと思いました。。。 
他者を分析することはほとんどなくなってきたと思いますが、
忘れないようにしたいなと思います。 

あとは、なんでもかんでも原因をつきとめれば良い
と無意識に思い込んでいたこと、
つきとめたところで解決にならないことにも気づくことができました。 

価値判断が外れれば外れるほど、好き嫌い、個性がはっきりしてくる、
そして川の流れがわかってくるということも興味深かったです。 
まだよくわかりませんが、自分の川の流れを見てみたいなと思いましたし、
本来の自分を実感してみたいと思いました。 

不要な価値判断を外すことについては、
自分で気づいているものもあるので、
不要なものは外していきたいなと思いましたが、
簡単ではなさそうだと感じました。 
あと自分の中ではただの好き嫌いと価値判断がからまっているというか、
価値判断を元に好き嫌いしているものもあったりするかなと思いました。
その価値判断を無くしたら今まで好きだな嫌いだなと思っていたのは
なくなるわけで、、
このあたり日々の中で注意深く見ていきたいなと思いました。 

そういえば幼い子供の言動や描く絵は価値判断やこうしなければならない
というルールがなく純粋で自由ですよね。 
面白いけど理解できないな。とも思っていましたが、当然なんですね。。 
そして誰もが元は自由だったんだなあ。と思いました。 

あと手放しが進んでいくと混沌としてくる。
今までのやり方だとうまくいかないことが出てくる。とありましたが、
具体的にどういった状態なのか気になりました。 
今の私は含むの無理か。。と思ったり、ふんわりとわかったかも!
の繰り返しのような感じです。 最近は物事を頭でこねくり回したり、
わからないことを無理に理解しようと試みることをやめようと思っていて、
講座の中のわからない部分もあまり考えないようにしています。 

2回目の講座が終わった後くらいまでは、可能な限り
統合したい願望が膨らんでいましたが、今は少し力が抜け、
楽にしている自分がいます。 
振動数を上げたり下げたりして日々を過ごしていく。 
素敵だな、とても面白そうだと思いますが、思うようにできなくてもいい。
と焦らず日々を過ごしてみようと思います。 
来月も講座楽しみにしています!



お話の中にあった、ある言葉を言われて傷ついた方のお話。 
私にも似たような経験があります。 

よく見知らぬ人から道を尋ねられるのです。一日に何度も。 
また私?他にも周りに人がたくさんいるのに! 
気にしてなかった頃もありましたが、もう何年も生きてきて
そんなことが 続くと、だんだん嫌になってきました。 
それで、外を出歩く時はイヤホンして音楽を聞いてます、
だから話しかけても 聞こえませんよ~と分かるようにしてみたり。
でも、それでも、聞かれます。 嬉しくないです。 
旅行先でも道を尋ねられます。いや、私ここに来るの初めてなので~、
こっちが 尋ねたいくらいなんですけどって思うんですけど。 笑 

大人しそうに見えて無害な地味なオーラの人、
頼みを断らなそうな大人しそうな人、 言い方を変えると
便利に使えそうな人に道を尋ねやすいのだろうなと 思うからです。
キラッキラッのオーラの人には尋ねにくいだろうなと。 
なんだか見下されているような気がするのですよね。 

無差別殺人を起こすような人も結局は被害に遭うのは子供や女性。
抵抗してこなさそうな 自分より弱い人。
人は無意識にそういう人を選んでいるのだと思う。 

友人にこれを言うと「私は優しそうな人に道を尋ねるから優しい人、
いい人 オーラなんだと思う」というのですが、どうにも納得いきません。 
道を教えることが嫌なのではないのです。この人に聞いても大丈夫と 
他人からジャッジされることが嫌なのですね。 

それはまゆさんがおっしゃられていたように、今までの経験からです。 
大人しそうに見える子どもや自己主張がをあまりしない子は
子供同士のみならず 先生からも扱いが雑になりがちです。
幼稚園、小学校時代、まさに私はそれを経験しました。 
大人になってからも、あまり親しくない人 からは時に
下に見られているからこその行動だなと感じることがありました。 

 今同じ経験をしたら、そういうのはいい気がしません
と言うこともできますが できればいいたくない。もめたくないんですね。
傷つきたくないとも言えますね。 
だから他人には同じ気持ちを味あわせないように気をつけます。 
自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません
のフレーズが抜けません。 
結局それは自分を守るためにしていることだった? 

私も白黒はっきりさせたい!
グレーだといてもたってもいられないタイプかも。 
でも、恋愛においては、グレーの時期も楽しいような・・・? 
これから楽しいことが始まるワクワク感。 
グレーの時期でイライラするのはそこになんらかの不安があるときかな。 

 一度振動数をあげてから、また分離を選ぶこともできるっていうのは 
もしかして~ ちょっと古いですが、
スーパーマリオブラザーズのどのワールドにいってゲームを 
するか選べる感じなのかなと思いました。そう考えると、楽しいですね。