このブログは主に、「する」をおとすの寺子屋参加者向けに
書いております。
ちなみに私の言う「瞑想」の定義は、以前書いた通り。
☆「何を「瞑想」って、呼んでいますか?」
いわゆるリラックスを目的とした
イメージワークであれば、別にいいと思うのですが、
「する」をおとす瞑想は、やめた方がいい時も、あります。
瞑想も、「する」をおとすも、
ただやればいいってものではありません。
「する」をおとす というのに、力が入りすぎると簡単に
「しなくちゃ、しなくちゃ」になってしまい、
その時点で「する」をおとすを「する」になってしまいますからね。☺️
OSHOが「あなたが死ぬまでは」の中で
こんなことを言っておりました。
時にはあなたがたの間に、
瞑想をすべてやめた方がいい人たちがいる。
その志向ゆえに、瞑想までもが
一つの気負いとなって障害になるからだ 。
あるいはまた、その人の意向にまったく反して
瞑想を強制しなければならない人たちもいる。
なぜなら人によっては、
ある種の力み、緊張がなければ
変容が不可能なことがあるからだ。
こういったことに関する技は実に微妙だ。
ある種の緊張が必要なときがある。
たとえば弓で矢を引くときには、一種の力みが要る。
それがなければ矢は放たれない。
だが、強すぎる緊張は矢を折ることもあるのだ。
瞑想は必要だ。
一心不乱に努力して瞑想することが必要だ。
しかし、あなたがたはいつ始めて、
いつ終るべきかがわからない。
それを私はようく見ていなければならない 。
だから時折私は「瞑想をやめなさい!」と言う。
ところがあなたがたはそれが理解できない。
というのも私はつねに「瞑想しなさい!」と教えているからだ。
それにまた、私は「瞑想に入りなさい」
と言わなければならないときもある。
するとまたまたあなたがたには理解できない。
それというのも、私が日頃
「努力など必要ではない。それが来るときには来る!
それはハプニングなんだから・・・」
などと教えているからだ。
私のいる状況をわかって欲しいものだね 。
しかも、私が働きかけなければならない人たちの数は多い。
だから私は、大いに矛盾したことを言い続ける。
一人にはあることを言い、別の人にはその反対を話す。
なぜなら人はみな、一人ずつ違うからだ。
私がどんなことを話そうと、それは個人に向けられている。
もし私が何かを言うとしたら、
私はまさにあなたに語りかけているのであって、
他の誰にでもない。
私は別に覚者ではありませんが、
OSHOがここで言わんとしていることは、
よくわかります。
日々セッションをする中で、私も、例えば
「もっと自分を信じてみてください」と言う一方で、
「もっと自分(自我)を疑ってみてください」とも言うし、
人によって、真逆のことを伝えること、ありますからね。☺️
個性もプロセスも、一人ずつ違いますから、
その人がどっちに偏っていて、どうすればバランスするかによって、
伝えることは変わるのです。
ブログやメルマガは、
どうしても、一対一ではなく、皆さんに向けて書くしかないので、
必ずしも当てはまらない ってこともご理解のうえ、
読んでくださいね。☺️
先日もブログに書いたように
☆「自我は気づかれると、一旦、すごく活性化します」
「する」をおとし出すと、
自我は活性化するものです。
5月の9日間のサイレントリトリートのことを書いたブログ
☆「沈黙。あけまして、」
でも、私の自我活性化の様子も書きました。😂
だからこそ、セルフに集中する、ということで
超えられることもあるのですが、
頭ではわかっていても、自我に振り回されすぎる時は、
それもなかなかうまくいかないもの。
感情がやたらと浮上したり、
「わかりたい!」って思考が邪魔したり。
そんな時は、やっぱり未消化の感情の消化、
に集中した方が、いいです。
「わかりたい!」って思考も、横に置いた方がいいです。
じゃないと、力みが優ってしまって、
自我と闘ってしまい、
ますます「する」はおとせません。
深い呼吸とリラックスができるようになったら、
また「する」をおとすに入ればいい。
「する」をおとさなくちゃ!になりすぎている時は
一旦やめて、自我自我しても、いいんです。
セルフ(自身)は絶対にいなくなりませんから。
常に一体ですから。
ゆるりと、いきましょう。
(ゆるりとしている場合ではない時も、ありますが😂)
☆「気づきのヒント まとめ」はこちら。
☆メニューと料金はこちら。