【お知らせ】
2019年5月から、RAS認定ファシリテーター養成講座の内容が改変され、受講料も上がる予定でしたが、延期となりました。改定内容が確定し次第とのことですので、決まり次第また告知させていただきます。
講座内容について、詳しくはこちら
12/8(日)音と色と香りのワークvol.4@代々木上原、お申し込み受付中。詳しくはこちら
12/16(月)小さなお茶会vol.53@代々木上原〜自傷行為がやめられない、もしくは過去に経験のある方限定、残2席となっております。詳しくはこちら

【リトリート】
12/21(土)〜23(月)冬至に春原恵子さんのコンサートと沖縄の聖地を巡る旅〜闇を見つめて光に還す2泊3日は残1席となっております。詳しくはこちら

【ゼニスオメガヒーリング・プラクティショナー養成講座】
12/14(土)15(日)レベル5授業は満席となりました。
場所が取れた場合のみ、2名まで増席可能ですので、ご希望の方はお気軽にご相談ください。
12/14(土)11:00-19:00にレッスンのみを、
12/15(日)10:00-13:00にティーチャー希望の方用の座学を行う予定です
レベル1授業、来年1月に開催予定ですので、ご希望の方はメールくださいね。今なら日程調整可能です。
レベル2、3授業をご希望の方はご連絡ください。あと1名いらしたら日程を調整いたします。
レベル1〜5まで、ご希望に合わせて随時開催中です。他校からの生徒さんもどうぞ。お気軽にお問い合わせ下さい。
授業内容について詳しくはこちら

花粉症やアトピーなど、アレルギーにお悩みの方へ☞こちら
RASセルフケア講座に関するQ&Aはこちら。(受講された方へ)

2012/03/03

記憶、というもの。

「Que voz feio (醜い声)」より ©山本良浩

皆さんは「Que voz feio(醜い声)」という短編映画をご存知ですか?
双子の女性がそれぞれの視点から、子供の頃におきた、ある出来事について語る映画です。
・・・単純に言えばそれだけなのですが、同じ出来事について話しているはずなのに、彼女たちの話の内容が微妙に食い違っていて、もはやどちらが事実なのか分からなくなっていく感じが、「あぁ、そういうことってよくあるよなぁ」と、自分の身近にある記憶のすれ違いに思いを馳せずにはいられなくさせます。そして、記憶というものがいかに曖昧で不完全なものか、改めて気づかされるのです。

そもそも、人は、忘れる生き物です。
私も、20代までは何かとくだらないことまでしっかり記憶していたものですが、 30を過ぎた辺りから、記憶のメモリーがすでに容量を超えたのか、何かを消去しないと新しい記憶が保存されないのではなかろうか、と思うくらい、結構いろんなことを自然と忘れるようになってしまいました。 (笑)
おかげで、昔は頭にくることや落ち込むことがあると、いつまでも引きずったりしたこともあったものだけれど、今は忘れてしまうので、どうでもよくなってしまったりします。
これは結構ありがたいことで。
まあ、他に考えないといけないことが増えて、ひとつのことに固執していられなくなった、ってこともあるんでしょうけどね。

でも、自分がすっかり忘れてしまったことを、人に言われて「そんなことあったっけ?」と思うこともしばしばあり、忘れることが増えるほどに、記憶ってものについて、考えずにはいられなくなったりもします。

人と共有している記憶は、自分が忘れても、誰かが覚えていれば、それは実際にあったこととして存在するけれど、誰もが忘れてしまったら、それは存在しなかったのと同じことになってしまわないだろうか?

一人きりの記憶、例えば一人旅での経験なんかは、自分が忘れてしまったら、それはなかったのと同じことになってしまうんだろうか?

記憶があってはじめて、過去は成り立つってこと?

じゃあ、記憶がねじ曲がったら、過去も一緒にねじ曲がるんだろうか?

・・・とかね。

友達が「その芝居は本多劇場でやってたんだよー、絶対!」と言い、
私は「違うと思うよー。THEATER TOPSじゃないかー?」と言い、10年以上前のあやふやな記憶について、検索して調べたことがあります。
結果はTHEATER TOPSだったわけだけど、友達は「えーー?そうだったかなぁ?本多だと思うけどなー。おかしいなぁ」とずっと頭をひねっていました。
ここで調べなければ、彼女の記憶の中では永遠に本多劇場ということでFIXしてたはず。それは実際とは違ってたとしても、彼女の中では事実として残ります。
どーでもいい話ですが、それって不思議です。

記憶なんて、所詮は曖昧なもの。
本当の過去と、記憶上の過去。
どっちが本物だと言えるでしょう?
記憶の数だけ、過去は存在するのかもしれません。

記憶の共有者がいなければ、もしかしたらすべてがあやふやで、あいまいな、 シャボン玉みないな、うたかたの日々。
だからこそ、愛おしき日々。

「ぼくたちは 何だかすべて 忘れてしまうね」

この、岡崎京子の、マンガじゃなくて物語集のタイトルには、
とてもひっかかってしょうがないものがあって、折に触れて思い出しては、やるせなくなったり、切なくなったりして、でもなんだかなぁ、救われるような気持ちになるのです。