熊川哲也 K バレエカンパニーの「ロミオとジュリエット」を見て来ました。私は2年に一度くらいしかバレエは見ないので詳しくないんですが、やっぱり上品で優雅ですよね。オーケストラの生演奏というところも、何より贅沢。台詞がなくても身体表現と音楽だけで、感情は十分に伝わるし、泣ける。。
う〜ん、でも英米文学科でシェイクスピアのゼミも取っていた私にとっては、シェイクスピアは台詞がいちいち素晴らしいので、「台詞がないなんてもったいない〜」とも思ってしまうのでした。「バレエなんだから当たり前じゃないか、じゃあ見に行くな!」ですよね、すいません。熊川哲也、一度見てみたかったもんで。ダンサーの友人知人も結構いるので、身体表現というものにも、興味があるのです。。言葉が介在しないからこそ伝わるもの。そっちの方が時に説得力を持ちますしね。
私、シェイクスピア劇は、かなり見ている方だと思います。シェイクスピアの生地、ストラトフォード=アポン=エイボンでも、本場の「真夏の夜の夢」を見ました。まだ20歳の頃。
ちなみに私が初めて見た「ロミオとジュリエット」は大学生の時、シェイクスピアのゼミの青山誠子教授と二人でだったんですが、その時のジュリエット役、久本雅美だったんですよね〜。(笑)コメディでも何でもなくて、ちゃんと悲劇としての演劇で、ですよ。教授は知らないので「綺麗な女優さんだったわね」とおっしゃってましたが、確かに普通にしていたら綺麗な方ですが、イメージがイメージなので、悲劇が時々喜劇に見えてしまうといいますか… なのでよく覚えています。でも、そもそも悲劇と喜劇も紙一重ですもんね。悲しいことが滑稽にも見えたり、可笑しいことが悲しくも見えたり。そういう意味では、すごく的を得たキャスティング。でした。
でですね、話は飛びますが、私がオーラソーマを勉強するようになって驚いたことのひとつは、マスターの一人、セント・ジャーメイン(仏語読みだとサンジェルマン)のエネルギーがシェイクスピアにも投影されていたってこと。言い方を変えれば、セント・ジャーメインは肉体を持ってシェイクスピアとしてこの地球にやって来たことがある、と。他に、ラゴッツィ王子、フランシス・ベーコンとしても。「あぁ、だからあんなにすごい芝居が作れちゃうのかぁ…」とやけに納得してしまいました。
*成し遂げんとした志をただ一回の敗北によって捨ててはいけない。
*人の一生は歩き回る影法師、哀れな役者にすぎない。
*演戯の目的は自然に向かって鏡を立て掛けることだ。
*この世は舞台、人はみな役者。
*ことばは宙に舞い、思いは地に残る。
*愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている。
*楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだ。
*愚かな知恵者になるよりも、利口な馬鹿になりなさい。
*世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ。
*時というものは、 それぞれの人間によって、 それぞれの速さで走るものなのだよ。
*過去と未来は最高によく思える。 現在の事柄は最高に悪い。
*「今が最悪の状態」と言える間は、 まだ最悪の状態ではない。
*神は、我々を人間にするために、何らかの欠点を与える。
*痛みを知らない奴だけが、他人の傷を見て笑う。
*習慣も大事だが、中には守るより破った方がいいものもある。
…まだまだ、名セリフだらけ。
英語だとまた韻が美しかったりするんですが、意味だけを受け取っても深いですよね。
そしてセント・ジャーメインといえば、バイオレット。
低次のネガティブなエネルギーの変容と変成。
そして本当のあなたが人生の舞台に立つことを許すことによって、無条件の愛をコミュニケートする。
「許す」、つまり自分自身にもっと優しくなることを助けてくれるのが、セント・ジャーメインの配偶者・レディポルシャなのも面白いところ。レディポルシャのキーワードは「裁くなかれ」ですからね。人のことも自分のことも「判断しない」ってことです。自分自身に厳しくあればあるほど、他の人から批判を呼ぶことになってしまう。だからこそ、まず自分に優しくありましょうね、っていうメッセージ。
そんな、いろんなことを、シェイクスピアは戯曲を通して伝えてきてくれました。長く残り続けるものには、やっぱり、それなりの意味があるなぁと思います。
そしてそして、
セント・ジャーメインと関わりのある場所が、シャスタ!
シャスタ山のパンサーメドウズに現れたという伝説も残っていて、毎夏、紫色の服を来た人で街が溢れかえるという、大きなお祭りもあるんですよ。お土産屋さんには、セント・ジャーメインが描かれた絵もたくさん売られています。
あ〜。9月の森の遠足@シャスタが、待ちきれませんっ。