というブログを書きましたが、そこにも書いたように、
私のここのところの旬なテーマは「相反するもの」でした。
信頼と疑念、
肯定と否定、
ポジティブとネガティブ、
光と闇、
陰と陽…
なんか、世の中的に、
信頼とか肯定とかポジティブとか光とかは「良いもの」
だからあった方がよくて、
疑念とか否定とかネガティブとか闇とかは「悪いもの」
だからない方がいい、
とされてるじゃないですか。
「悪いもの」はなくそうとするでしょう?
ネガティブな感情は感じたくないし、認めたくない、って思うでしょう?
ポジティブ・シンキングなるものが流行ったこともありましたが、
信頼と疑念、
肯定と否定、
ポジティブとネガティブ、
光と闇、
陰と陽…
なんか、世の中的に、
信頼とか肯定とかポジティブとか光とかは「良いもの」
だからあった方がよくて、
疑念とか否定とかネガティブとか闇とかは「悪いもの」
だからない方がいい、
とされてるじゃないですか。
「悪いもの」はなくそうとするでしょう?
ネガティブな感情は感じたくないし、認めたくない、って思うでしょう?
ポジティブ・シンキングなるものが流行ったこともありましたが、
人はずっとポジティブキープ!なんてできないのが当たり前だから、
できない自分にかえって落ち込んで
バランス崩した人も多かったのではなかろうか?と思うのです。
てか、この一見「相反するもの」に見えてるものって、
つまるところ、、、同じじゃんね?
(@´・ω・)
良い悪いとか正しいとか間違ってるとか
白黒つけてんの、、、私たち自身じゃんね?
(@´・ω・)
てことは、どっちかだけにしようなんて考え方自体が、ドツボ。
お池にハマって さぁ〜大変♪
ってやつです。
どっちも持ってていいんです。
(そもそもどっちもこっちもないんだけども)
要は、バランスです。
陰陽のマークというのは、よくできてますよねぇ。
どっちも、同じだけあるのが調和のとれた状態。
私たちはつい、どっちかに偏ろうとしてしまいがちですが。
でも正反対に見えて、
全体の中では補い合うふたつの側面に過ぎないんですね。
アナスタシアシリーズの4冊目「共同の創造」
の中にこんなことが書かれています。
「確信と疑念。これらが等しいとき、
てか、この一見「相反するもの」に見えてるものって、
つまるところ、、、同じじゃんね?
(@´・ω・)
良い悪いとか正しいとか間違ってるとか
白黒つけてんの、、、私たち自身じゃんね?
(@´・ω・)
てことは、どっちかだけにしようなんて考え方自体が、ドツボ。
お池にハマって さぁ〜大変♪
ってやつです。
どっちも持ってていいんです。
(そもそもどっちもこっちもないんだけども)
要は、バランスです。
陰陽のマークというのは、よくできてますよねぇ。
どっちも、同じだけあるのが調和のとれた状態。
私たちはつい、どっちかに偏ろうとしてしまいがちですが。
でも正反対に見えて、
全体の中では補い合うふたつの側面に過ぎないんですね。
アナスタシアシリーズの4冊目「共同の創造」
の中にこんなことが書かれています。
「確信と疑念。これらが等しいとき、
未来の創造が正確で美しくあるための助けになる」
「すべてはおまえの内にある。
「すべてはおまえの内にある。
おまえは大宇宙のすべてのエネルギーを支配する者。
私はすべての相反するものを、つりあうようにおまえの内に込めた。
まさにそれゆえに、おまえは最も新しいものである。
おまえの内で、どれかひとつだけに偏りを強くさせてはならない。
それを許さなければ、私もおまえの内にある。」
ここで言う
「おまえ」っていうのは最初の人間、アダムのことで、
「私」っていうのは創造主、神、父なる存在のことなんですけどね。
そしてもちろんアダムのみならず、
人間全てに向けて言ってることでもあります。
「相反するもの」について考えていた私には
とても深く響いた言葉です。
確信と疑念を等しい力で持つって、
結構難しいことですよね?^ ^;
「自分を信じる」と同時に「自分を疑う」って。
でも同時にどっちも同じだけ、っていうところが
ミソなんですねぇ。
反転させるとどっちもなくなるっていう。。
どっちもあると、結果、どっちもないっていう。。
これ、伯家神道(古神道)でよく言うところの
「主体」と「客体」が消えた状態なんだと思うのです。
「わたし」と「あなた」がない状態、ね。
そこにこそ真実が浮かび上がる… と
賢者たちも古からおっしゃってますよね。
例えば老子はこんなことをおっしゃっています。
「道というのは、これまで言われてきた道ではない。
ここで言う
「おまえ」っていうのは最初の人間、アダムのことで、
「私」っていうのは創造主、神、父なる存在のことなんですけどね。
そしてもちろんアダムのみならず、
人間全てに向けて言ってることでもあります。
「相反するもの」について考えていた私には
とても深く響いた言葉です。
確信と疑念を等しい力で持つって、
結構難しいことですよね?^ ^;
「自分を信じる」と同時に「自分を疑う」って。
でも同時にどっちも同じだけ、っていうところが
ミソなんですねぇ。
反転させるとどっちもなくなるっていう。。
どっちもあると、結果、どっちもないっていう。。
これ、伯家神道(古神道)でよく言うところの
「主体」と「客体」が消えた状態なんだと思うのです。
「わたし」と「あなた」がない状態、ね。
そこにこそ真実が浮かび上がる… と
賢者たちも古からおっしゃってますよね。
例えば老子はこんなことをおっしゃっています。
「道というのは、これまで言われてきた道ではない。
名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。
だから無名である。
天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。
したがって有名は万物の母である。
故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。
故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。
此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。
別にここと相反するものを調和させなくても生きれるんです。
自分の信念で生きてもいいし、信念でなくてもいいし、
とにかく社会のシステムだけで生きていこうと思えば生きれるんです。
だけど、自分の中の地球生物的な部分と、霊性的な部分とが、
二つが二つのまんまじゃなくて、
混ざってアルケミーを起こしている所の際の部分、
どっちでも無い状態になった部分に鍵があるんですよ。
本当の可能性はそこにあるんです。」
「仕組みの中の成果なんて言うのは、所詮誰かの意図なんです。
「仕組みの中の成果なんて言うのは、所詮誰かの意図なんです。
誰かの意図の成果なんかは突破して、他人のことを思い煩うよりも、
自分の中の相反するものを怖がらないで出会わせる。
自分の中に、メイド・イン・地球とそうでないものがあるんです。
生きているというのは矛盾なんですよ。
その矛盾をある人は解決しないで他人に転嫁して、
ああしろこうしろなんて言うけど、それはその人のごまかしなんです。
生きていると、矛盾とか葛藤とかそういうものが訪れる。
だけどそれでも宇宙と一緒に生きていると、ちゃんとそれは合流します。
そして、相反するものが融合した時には、とてつもない至福、
とてつもない進化がそこには待っている。葛藤を超えていくんです。」
(こちらのインタビューより抜粋)
賢者ぢゃないから分かんないよ
(@´・ω・)
なーんて思わず言いたくなような
「???」な話かもしれませんが、
自らが創り出している「相反するもの」について
思いを巡らしてみるのも、
たまには面白いのではないでしょうか。
私もまだまだ探求中につき〜。
これにて。
☆昔書いたブログ「Dr.クリスティン・ペイジに会いに行く」
も参考になるかもしれません。
(こちらのインタビューより抜粋)
賢者ぢゃないから分かんないよ
(@´・ω・)
なーんて思わず言いたくなような
「???」な話かもしれませんが、
自らが創り出している「相反するもの」について
思いを巡らしてみるのも、
たまには面白いのではないでしょうか。
私もまだまだ探求中につき〜。
これにて。
☆昔書いたブログ「Dr.クリスティン・ペイジに会いに行く」
も参考になるかもしれません。