先日「ジャッジって何ですか?」というブログを書きました。
でもまだまだ「ジャッジ(判断)がよく分からない」
「委ねるがピンとこない」と言われるので、
何かいい伝え方はないかな〜?と思っていたんですが、
「あなたが死ぬまでは」の中に書かれているOSHOの講話で、
老子も好んだというお話が分かりやすいと思ったので、
抜粋させていただこうと思います。
***
この物語は老子の時代に中国で起こり、老子はそれを非常に愛した。
村にひとりの老人がいた。彼は非常に貧しかったが、美しい白馬をもっていたために、王たちでさえ彼を嫉妬した…。王たちはその馬に途方もない値をつけたが、その男はいつもこう言った。
「この馬は、私にとっては馬ではない。人だ。どうして人を、友人を売ることができるだろう?」
男は貧しかったが、けっしてその馬を売ろうとはしなかった。
ある朝、馬が馬小屋からいなくなっていた。村中が集まって言った。
「じいさん、あんたはばがだよ!いつかは馬が盗まれるということは、俺たちにはわかっていたんだ。あいつは売った方がよかったんだよ。なんて運のないことだ!」
老人は言った。
「そんなに言いすぎてはいけない。馬小屋に馬がいないとだけ言えばいい。
それが事実だ。ほかのことはすべて判断だ。
それが不幸なのか、それとも祝福なのか、私は知らない。
というのも、これは断片にすぎないからだ。
その後になにがつづくのかは誰にもわからないだろう?」
人びとは老人を笑った。彼らはいつも、この老人は少し狂っていると思っていたのだ。
だが十五日たって、ある夜突然、馬が帰ってきた。馬は盗まれたのではなかった。山野に逃げていたのだ。しかもそれだけではなく、彼は1ダースの野性馬をいっしょに連れてきた。 またしても人びとが集まって言った。
「じいさん、正しかったじゃないか。これは不幸ではなく、祝福だったということが確かに証明されたんだ。」
老人は言った。
「またしてもあなた方は行きすぎる。馬が戻ってきたとだけ言えばいい…。
それが祝福かどうか誰が知っている? それは判断にすぎないのだ。
あなた方は文章のひとつの言葉しか読まない--それでどうして本全体を判断することができるだろう?」
今度は人びとはあまり多くは言えなかった。だが内側では、彼はまちがっていると知っていた。十二頭の美しい馬が来たのだ…。
老人にはひとり息子がいて、その野性馬を馴らし始めた。ちょうど一週間後、彼は馬から落ちて両足を折った。
人びとはまた集まってきて、再び判断した。彼らは言った。
「またしてもお前さんが正しいということになったな。不幸だったんだ。お前さんのたったひとりの息子が足を使えなくなってしまった。しかもお前の歳では彼がたったひとつの支えだったのに。いまやお前さんは前にもまして貧乏だ。」
老人は言った。
「あなた方は判断にとりつかれている。そんなに行きすぎてはいけない。
私の息子が両足を折ったとだけ言え ばいい。
これが不幸か、祝福か、誰も知らないのだ。
生は断片のままやってきて、それ以上は決して与えられていない。」
数週間たつと、その国は戦争に入り、町の若者たちはみな軍隊に取られることになった。 老人の息子だけは残った。歩けなかったからだ。 町中が泣き、すすり泣いていた。それは負け戦で、ほとんどの若者は帰ってこないとわかっていたためだった。彼らは老人のところに来て言った。
「じいさん、あんたが正しかったよ--これが祝福だったことが証明されたんだ。あんたの息子は歩けないかもしれないが、それでもあんたといっしょにいる。私たちの息子は永遠に逝ってしまった。」
老人は再び言った。
「あなた方はいつまでもいつまでも判断しつづける。
誰にもわからないのだ!
あなた方の息子は軍隊に入るように強制され、私の息子は強制されなかったとだけ言えばいい。 だが神<全体なるもの>だけが、それが祝福か不幸か知っている。」
判断しないことだ。
さもなければ、あなたはけっして<全体なるもの>とひとつにはならない。
断片であなたはとりつかれる。
小さなことであなたは結論に飛びつく。
一度判断したら、あなたは成長をやめたことになる。
判断とは、マインドの腐りかけた状態のことだ。そしてマインドは常に判断を求める。
進行している動きのなかにいるのは常に危険で、居心地がよくないからだ。
事実、旅はけっして終わらない。
ある道が終わり、別の道が始まる。
ある扉が閉まり、別の扉が開く。
あなたは頂上に辿り着く。そこには常に、さらに高い頂きがある。
神は終わりのない旅だ。
ゴールを気にせずに、旅で満足ができるほどに、ただ瞬間を生きて、そのなかへと成長してゆくことで満足できるほどの勇気のある者たち、--そういう者たちにしか、<全体なるもの>とともに歩くことはできない。
***
ジャッジ(判断)というのは、
人それぞれのフィルターを通した「ものの見方、視点」であって、
事実そのものではない、ということが分かりやすいお話かと思います。
そして、ジャッジ(判断)は事実をゆがめて見てしまう、
だから真実に辿り着けないということも。
「ひとつの見方」という制限を与えてしまって、
その先のあらゆる可能性を見れなくしてしまってるんですよねぇ。
こないだ「『点』が『線』になって、今があるのだ」
というブログを書きましたが、
今という「点」がどんな「線」になって
次の「点」に繋がっていくかなんて、
その時には誰にも分からないんですよね。
何が起こるかなんて分からないし、だからこそ人生は面白い。
私たちが想像できる範囲なんて、たかが知れています。
思考というのは常に、過去のものだからです。
「安定はいいもの」っていう考え方が一般的ですが、
安定って結局、自分が予測できる範囲に物事が収まってる感じ、
ですよねぇ?
私はそれ、つまんなくないか?って思います。
この老人は、ジャッジ(判断)していないだけでなく、
全く結果にも執着していません。
完全に宇宙を信頼して、ただあるがままに受けとっていますよね。
ただ物事が起こるに任せている。=委ねている。
委ねるって、何もしない、ってことではないですよ。
どんな展開になっても、オープンでいるってことです。
人事を尽くして天命を待つ、が近いですかね。
すべてはプロセスなので、
何がどう転がっていくかなんて、所詮私たちには分かりません。
だったら、「点」に一喜一憂しないで、
これがどんな「線」になっていくのかを楽しんじゃった方がいい、
と私は思います。
ちょっと人生を振り返ってみても、
いつだって、いいことも悪いことも
(全体で見た時には、いいも悪いもないんですが)、
予想外のことは起こっていました。
皆さんだって、きっとそうでしょう?
だったら信じてみませんか?
自分(自我・エゴの部分)の力の及ばない、大いなる意志ってものを。
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