【お知らせ】
2025年1月より、RAS認定ファシリテーターの更新制度が変更となります。ファシリ講座の受講を検討中の方は、お気軽にお問い合わせ下さいね。

【リトリート】
2025年も2/7以降で、なおちゃんとクジラを見る🐳屋久島リトリート、リクエストいただいてます。他にも希望者いらっしゃいましたら、まだ日程確定前なので、調整できるうちに早めにご連絡くださいね。今回の告知はしてませんが、以前の告知、こちらを大体の参考にしてください。
リトリートのリクエストは、場所や時期にもよりますが、宿などが取りづらいので、少なくとも開催の2ヶ月前、できれば3ヶ月前 にはいただけると嬉しいです。


【ゼニスオメガヒーリング・プラクティショナー養成講座】
2020年より『マスターティーチャーのみ』ZOOMでのオンライン授業が可能になりました。詳しくはこちら。テキストを事前に送る都合上、開催1週間前には受付終了とさせていただきます。2023年4月より対面授業も再開しますが、オンラインの方が人数は集まりやすいです。

レベル1〜5まで、ご希望に合わせて随時開催中です。他校からの生徒さんもどうぞ。お気軽にお問い合わせ下さい。授業内容について詳しくはこちら

RASセルフケア講座に関するQ&Aはこちら。(受講された方へ)

2016/06/12

ジャッジって、何ですか?

2010年にシャスタにて
故アモラさんと

「ジャッジって何ですか?」とお客さんに聞かれましたので、
ちょっと書いておきたいと思います。


「ジャッジ JUDGE」は翻訳すると
「判断する、評価する、批判する、裁く」。


「私はなんてダメな人間なんだろう」と思うなら、
それは自分で自分をジャッジしていることになります。

「あの人は何でも人のせいにして、なんて自分勝手な人間なんだろう」
と誰かに対して思うなら、
それはその人をジャッジしていることになります。

そして、他者へのジャッジというのは、
自分へのジャッジが投影されているものです。

自分が自分に許していないことをやっている人に対して、
私たちは「あり得ない」「許せない」という思いを抱きます。
自分の中の「〜べきだ」「〜でなければならない」という価値観を
押し付けてしまうんですね。


この世界というのは、
内側が外側に現れますので、
まず自分へのジャッジをやめることが、
他者へのジャッジをやめることに繋がります。

つまり、どんな自分も許すこと。受け入れること。
そのための「ジャッジはやめましょう」なわけですが、

ただ、単純に「ジャッジしてはいけない」と思い過ぎてしまうと、
極端な話、逆に自己犠牲にも走りかねませんので、
その点も付け加えておきたいと思います。


2010年にシャスタでお会いした故・アモラさんが、
著書「プレアデス 覚醒への道」で書いていることが分かりやすいので、
抜粋させていただきますね。

***

「判断」が「意見」や「好み」あるいは「洞察」とどう違うのかを説明したいと思います。というのも今日のスピリチュアルな探求者たちの間で、これらの意味についての混乱や議論がかなり多いように見られるからです。

ここでいう「判断」とは、他人または自分自身に対して、その人の本質的な価値を否定する自分の認識を投影し、価値のない忌み嫌うべき人として見ることです。例えばあなたが「彼は救いようのない頑固者だ」と言ったり考えたりしたのなら、あなたはその言葉どおりに相手を認識していることになります。つまりその人の本質的な価値を認めようとせず、ある態度やふるまいをもとにして全人格にレッテルをはりつけてしまうのです。それがすなわち「判断」です。

いっぽう、もしあなたが「彼がとてもかたくなになると、私は本当にはらはらしてストレスを感じるし、腹がたってくる。私はそういう状態が好きじゃないわ」と口にしたり考えたりするなら、相手のふるまいをあなたがどう感じるかというひとつの「意見」として、自分の感情や状態を表現していることになります。さらにもっと自分の気持ちに正直に、「私は彼といてもくつろげないし、大切にされている感じがしないの。だからもう彼とは一緒に過ごさないようにするつもりよ」と言ったり考えたりする場合は、あなたは自分自身の体験にもとづいて「選択」をしていることになります。そこにはあなたの「洞察」が用いられているのです。

このことを忘れないで下さい。あなたには、何があろうとも自分自身やほかの人を「判断」しないという霊的な責任があります。すべてのスピリットや魂をもった存在はそれぞれ独自の進化の道を歩んでいるのです。したがって人を非難したり裁いたりすることで、他人や自分の内面的価値をおとしめる権利は誰にもありません。それと同時に人生において洞察にもとづいた選択をし、自分自身を大切にいたわることによって、決して自分を犠牲にはしないという責任もあるのです。

身近な人々が信頼や尊敬に値しない態度をとったり、いつもあなたの気分を害するようなしかたでふるまうとしたら、あなたは「洞察」を用いて、その人とどんな関係を維持するのがふさわしいかを選択しなければなりません。それは相手の成長の可能性を否定することではなく、単にこの時点ではその人との関係において何が必要で、何が望ましいことなのかを選択するというだけです。

(中略)

基本的に私たちは、自分がだれとどれくらい親密な関係になるのかを「洞察」を用いて選択しなければなりません。波動レベルであなたと共振しあう人もいれば、まったく共振しあわない人もいます。その共振と親和性をもとに「好み」が生まれるのです。ただし魂がひかれあうからといって、必ずしも進化のレベルが親和しあうとは限らないことを理解しておく必要があります。魂の引力とカルマ的な磁力によって誰かにひかれたとしても、もしかしたら結局はその人との生活は苦痛で不愉快だとか、相性が悪いことを発見して終わるだけかもしれないのです。

***

「ジャッジしてはいけない」と思い過ぎて苦しくなっていた人は、
まさに
「判断」が「意見」や「好み」あるいは「洞察」とどう違うのか> 
が分からなくなっていたんじゃないかと思いますので、
これを読むと楽になりませんか? 
私はちょっとほっとしました。

ジャッジはしないように心がける。
でも、意見や好みはあっていいよね〜!っていう。

常に洞察力を駆使して、
自分にとって最善の「選択」をしていきたいですね。


☆6/20(月)満月に、小さなお茶会vol.16
〜ジャッジしまくり篇@代々木上原、もどうぞ。
詳しくはこちら
ジャッジには、実は気づきがあふれておりますよ。