4、5年前、とある宇宙の仕組みについての講座を受けてた時に
「鏡を見てください」と言われ、
「鏡に写っているあなたが、本当のあなたです」と言われたのですが
その時の私には、どんなに鏡に写る自分を眺めてみても、
その意味するところが
イマイチわからなかったんですよ。😂
鏡といえば、鏡の法則 って紐付けが強すぎて、
そっちにひっぱられちゃってましたね。
今思うと。
よく言われる、
「かがみ」から「が(我)」が落ちると
「かみ(神)」って方が、近いかな。☺️
講座だから、「その心は?」ってとこまで教えてもらえそうでしょう?
でも、そうではなく。
なぜかといえば、真実って、、
「全て」なわけですから、様々を含むので、
どうしても抽象的になります。
そして、抽象的なことを伝えようとした場合、
言葉で具体的にすればするほど離れてしまうというか、、
なんでもあれこれ教えればいいってものではなく。
教えれば伝わるってものでもなく。
だから、だったのでしょう。
ヒントは受け取ってましたが、
最後は自分でつかむしかない。
なので、ずーっと「どういうことかな」っていう問いは
頭のすみっこに置きつつ、
そのうちわかるだろう、と手放しておきました。
で、先月、ふと目にしたOSHOの言葉で
「!」と繋がりました〜。ついに。😂
繋がってみると、去年の一人サイレントリトリートの後に
わかっててもよかったですね。
なんか、その時は問いそのものすら忘れてて、
全然思い出さなかったわ〜。😂
その間に、すっかり熟成。
そして、ストン、と落ちました。
自分の忘備録も兼ねて、ここにシェアしておきますね。
内奥無比なる実存は鏡のようなものだ
それはその前に来るものすべてを映し出す
それはただ、ひとりの<観照者>となるのだ
空腹や満足
生と死
そこに起こることがなんであれ
それは鏡の前で起こるのだ
決して鏡そのものに起こるんじゃない
これが非同化だ
これが根を断つことだ
一番の根本を
ものごとはやって来ては過ぎて行く
鏡はうつろで
からっぽだ
空のままだ
これがティロパの言う無自己だ
鏡には同化されるような自己はない
それはただ反射するだけだ
これはきれいだのあれは汚いだのとは言いはしない
醜い女性が立っても
鏡は美人がその前に立つときと同じだけハッピーだ
自分のまわりで起こっていることに同化されないこと
自分の実存に中心を据え
根をおろしたままでいるのだ
ものごとはこれからも起こり続けるだろう
しかし
もしあなたがあなたの鏡のような意識に据わっていられれば
何ひとつ前と同じことはあるまい
あなたは純潔で
無垢で
純粋であり続ける
人が自分自身の実存と直面するとき
それはあたかも2枚の鏡が向かい合っているようなものだ
2枚の鏡が向かい合うとどうなるか、知っているかね?
その2枚は永遠を映し出す
無限のひろがり--
自分自身にゆきあたったとき
あなたはあなた自身を映す
永遠が映っている
それが神の栄光だ
瞑想のなかで、心は鏡のようになってゆく。
ゆっくりゆっくり、思考の塵すべてが消えてゆく。
欲望の雲すべてが消えてゆく。
そして、後にはなにも残っていない。
純粋な状態にある心は、ただの鏡だ。
熱情にかき乱されもせず、思考に曇らされてもいないただの鏡。
あらゆるものが、あるがままの姿で現れる。
連続4回小さな寺子屋〜「する」をおとす 参加者のご感想
☆「『なんでこんな可愛い子を放ったらかしにしてきたの』
って思うくらい、自分を愛おしく思うように」
☆「頭の中でゲームのレベルアップの効果音が鳴ってるよう」
☆「『あらー、自作自演!!』と喜劇にさえ思えたのでした」
☆「やり始めた頃は学んだこと、体験したことを 噛み砕くのも大変な状態だった」
参考ブログ
☆「沈黙。あけまして、」
(9日間の一人サイレントリトリート後のレポ)
☆「本当のあなたは、あなたがあなただと信じているそれではありません。
〜ガンガジの言葉」はこちら。
☆「気づきのヒント まとめ」はこちら。