6次元さんもオススメしてた「フランシス・ベーコン展」を見に行ってきました。平日の昼間だったけど、結構混んでてびっくり。
私がベーコンを知ったのは1996年。まだ20代前半、アート雑誌の編集をしていた頃でした。毎月のお決まりとして本の紹介をするページがあったんですが、そこは編集者が一人2、3冊担当して書くことになっていたんですね。で、なぜだったか忘れましたが、私に「フランシス・ベイコン 肉塊の孤独」という分厚い本がまわってきてしまったわけです。それは、ベーコンと同じくホモセクシュアルで40年間に渡る友人が書いた、かなり読み応えのあるベーコンの伝記でした。
「俺が死んだら、プラスティックの袋に入れてミゾに捨ててくれ」
というセリフは、酒にギャンブル、喧嘩に男、なベーコンの豪快な人生を象徴するようで、当時の私に強烈な印象を与えました。
こうして私は、ベーコンの絵すら知らずに、先に伝記を読まされることになったわけです。画家の絵を知る前に、画家の人生を知ることになったのは、私にとってはベーコンだけじゃないかなぁ…。
私はベーコンの絵が好きか嫌いか聞かれたら、正直、好きっていうのとは違うんですけどね。家にあったらコワイと思うし。(笑) でも伝記を読んだのをきっかけに絵を見るようになってから、気になって仕方がなくなった、のです。見てて、心がわさわさするんですよね。決してやさしくない。えぐられる感じ。なのに、見てしまう。
今回、ベーコンの絵が土方巽の舞踏にも影響を与えていたことを初めて知りました。確かに、ベーコンの肉体の描き方は、身体表現を追求する者にとって、かなり興味深いものだったろうな、ということは私にも理解できます。右脳と左脳が解け合う感じ、物質と粒子の境界線がない感じ、エゴからの解放…
展示されていた土方さんの直筆の原稿の中に「あ」と思わされた一行があったんですけど、正確に思い出せないので書くのは止めておきますね。
以前、神楽坂artdishにイベント「BAR離婚倶楽部」を手伝いに行った時、オーナーの麻知さんが「私は『清濁併せ呑む』っていうのが好きなんだよねぇ」と言っていたのを思い出しました。さすが沢渡朔さんの娘。私も同感。清も濁も存在してくれないと、清濁併せ呑めないですからね。(笑)
ベーコンの絵には、どっちもある気がします。
どっちもあるからこそ本質で、だから好き嫌いも分かれるし、心はざわつくんだろうな、と思います。
ヒーリングで浄化、とかって言うと、なんか清くなるイメージを持つ方もいるみたいですが、私は別にそっち派ではなく。清ければエライ、とかも、思ってません。どっちもあるから人間って面白いんじゃないの?と思いながらやってます。だからベーコン展も見に行きます。BAR離婚倶楽部も手伝います。(笑) 浄化っていっても、今のその人に不必要なブロックを外すためのものであって、清くなるっていうのとはちょっと違う。ヒーリングを受けたらその人の人生から「濁」がなくなるって訳ではありません。むしろ、清濁併せ呑めるようになる、と言った方が正しいな。つまり、判断しなくなる、ってことです。
日本での個展は30年ぶりとなるこのベーコン展、5/26(日)までですので、興味のある方は見に行ってみて下さい。国立近代美術館の窓から眺めるお堀も、なごめていいですよ。