9月にお客さんの気づきをシェアしたブログ
「自分を散々こき下ろして、自分と向き合ってる!と思ってました。」
は「私も!」って方が多くて、
感想を寄せてくれた方もいらっしゃいました。
時間を置くとまた過去のクセが出て、
つい自分のアラ探しして、自分を責め出してる方も
いらっしゃるのではないかと思い、、、
逆にちょうどいいかな、とも思ったりなんかして(笑)
ちょっと時間が経ってしまいましたが、
今更ながら、シェアさせていただきます。😁
まずこちら、ゆうさんは、ご自身のブログに
「今の私にスッと入ってきた言葉たち」と題して
書いてくれました。
お母さんとの完全同居が始まったことで、
「母親から毎日のようにダメ出しを受け続けている」
とのことですが、きっと
「わかる〜!!」って共感する方、多いのではないかと。。
読んでみてくださいね。😊
どんなことが起こっても、私は私を幸せにするんだって、
本気の本気でやりぬく覚悟を持ちます。
「持ちたいと思う」なんてぬるい言葉じゃ、
また同じことを繰り返すに違いない。
ここに書くことで、自明のものにしてしまおう。
悩んで迷ったら、またこのブログを読み返すんだ!ヽ(^。^)ノ>私
とも、書いてくれました。
そうなんですよねぇ。。
私たちはつい、自分のせいにしたり、人のせいにしたり、
「責める」ってことがクセになってしまってます。
だから、この「責める」をやめるって、覚悟がいるのです。
やってみたら、わかります。
すぐ「責めたくなる」自分に気づくはずだから・・・
そんな自分に気づいては、やめる。
「自分が自分を幸せにするのだ!!」
ってことは、
「誰も責めない」ってことでもあるのです。
そして、もうお一人。
シェアさせていただきますね。
萬夕さんのblogに寄せられていた手記……
「自分を散々こき下ろして、自分と向き合ってる!
と思ってました」という、
Kさんの言葉、わたしもとても共感しました。
Kさん、しばらくお会いできていないけれど、
声が聴けたようで嬉しかったです、
ありがとうございます!
わたしも、自分のあら探しをして、
苦手を見つけて、それを克服することが、
自分と向き合うことだと思っていました。
それができなくて自己否定を繰り返してきました。
苦しむことが真に生きることなのだと考え、
あえて苦しむ選択をすることもありました。
でも、それはちがうと、わたしも思えました。
全肯定って、自分をむやみに褒めることでもなく。
あってあるままを、まるごと、みとめることで。
苦手はあるし、苦手でもいいけれど、
苦手上等とか、あるがまま万歳というのでもなくて。
できないことや苦手なことはあるけれど、
できることや得意なこともあるわけで、
卑下することも思い上がることもなく、
それらを等しく見るようになってきました。
そして、わたしに足りないところは素直に認めて、
逃げるのでも諦めるのでも開き直るでもなく、
もちろん底上げは試みつつ。
でも、手を借りるという選択肢もある、
素直に手を借りよう、とも思うようになりました。
だからわたしは、Kさんとは、
この点では、もしかしたら逆かもしれません。
一人で生きていこうと思っていたけれど、
自分を全肯定している存在同士なら、
互いに支え合えたら、そういう人が身近にいたら、
よりベターだと思うようになりました。
ヒプノで“恋愛”三昧をみたおかげかもしれません。
これがすなわち結婚願望なのかはわからないし、
誰かいたらもっといいなんて、安易で欲ばりかな?
とも思いますが。。
わたしはいまは、
「自分に向き合うこととは、
好き!と縁とタイミングを信じること」
と思っています。
それはめぐりあわせで、ひいては、しあわせだと。
自分で自分を幸せにする、
そう腹をくくる、その覚悟。
すごく素敵な思いだな、と思いました。
つけ加えちゃうけれど、腹くくって、腹を割る、が、
わたしの気分です。
だからこうして腹割って書いて……すみません。。
人は覚悟するとき、「これだ!これしかない!」
と、思うものだと思いますが、
これは、ワクワクでもあるけれど、
悲壮感にも反転しやすいですよね。
でも、しあわせへの覚悟は、
悲壮にはなりようがないから、いいな、と思います。
もしかしたら過程は悲壮かもしれないけれど、
その過程すら“しあわせへのひとあしずつ”ですから。
(宮沢賢治の詩から。☞
ブログ「なにがしあわせかわからないです」でどうぞ)
感情を感じきらないと不幸、
というわけでもないですよね。
感じきったら絶対幸福、
というわけでもないだろうし。
しあわせになると覚悟したら、
あ、自分、初めから、しあわせだった、
と気づく瞬間があるような気がします。
そういう、初めからしあわせだった、
息することすら楽しい!という瞬間を、
重ねていけたらいいな、と思っています。
すぐ忘れるから、その都度、新しく。
悲しいことや苦しいことも多いけれど、
そう思わせられるくらいに、
大切なものがあるということにも気づきます。
“ぼくはぼくのおともだち”のエピソード、
感動しました。真実ですよね。
わたしの身近にも、重い障害を持つ幼い子がいます。
彼にはいわゆる“友だち”はできないかもしれません。
でも、それが不幸なことだとは思いません。
彼にとっても、
“ぼくはぼくのおともだち”ということは、
揺るがないことのように思えます。
そして、彼のママもパパも、周りの大人たちも、
彼の“おともだち”です、ぜったいに裏切らない。
たとえエゴなんだとしても、
全力で祈ることと、
何があっても愛し抜くという覚悟を、
わたしは、彼が生まれてきてくれて、
初めて知ったかもしれません。
友だちだから、友だちが苦しんでいると、
自分も苦しくなる……
苦しくなるくらいに、大切だから。
もう、自分か相手かもわからなくなる……
それは危険でもあるけれど、愛でもある。
執着と背中合わせの大切でもある。
わたしの友だちは、わたしだけにとどまらず、
これから増えるかもしれません。
このまま増えないかもしれません。
どちらにしても、“わたしはわたしの友だち”
というベースは揺るがないから、
友だちが増えたら嬉しいなと、
わたし自身は思っています。
大切が増えていけばいいな、と。
それは、実際に友だちかもしれないし、
恋人や伴侶や子どもかもしれないし、
まったく違うかたちかもしれません。
世間では、友だちが多い方がいい、
友だちができないのは不幸、社会不適合、
みたいな風潮がありますが、
結婚も然り……
でも、それは違いますよね。
誰を愛すか、何を好きかって、
(誰も愛さない、何も好かないをも含めて)
人間の究極の自由なわけですから。
そこを暗にも強制されるのは、おかしいと思います。
萬夕さんの「大切と執着は背中合わせ」というのも、
頷きながら読みました。
究極の自由である愛が、
いつしか不自由にすりかわるんですよね。。
でも……
自分自身、そして誰か何かを、
愛して、大切に思う気もちは、
やはり美しいと思うので、
執着と背中合わせだとしても、
臆することなく愛していたい、大切を大切にしたい、
と、わたしは思います。
お別れが悲しいから愛さない、愛したくないって、
これまでは思っていたフシがあります。。
でも。
せっかくこの世に生まれてきたからには、
喪えば壊れるくらい愛せたら、悲しくても、すごい。
自分とは、自分の愛してきたものの総体、
とも思います。
悲壮感を持ち込むつもりはないけれど、
わたしは敢えて執着を選ぶかもしれません。
自分に酔っているかもしれません。
でもそのくらい大切に思えるものがあるのは、
幸福(降伏?)以外の何だろう?とも思います。
それでもなるべくは執着せず。
誰にたいしても思うことではあるけれど、
大切に思う人には、ことさらに、
その人がその人本来を生きられるよう、
願いつつ、います。
2年前のブログ
「アレルギーと感情の相関性。そして想像と実際。」
でシェアしたお客さんの言葉の中にも
わたしは、もう、10年以上、観察が大事と言われて、
ずっと、内観してきたつもりだったのですが、
長い間、批判の視点でこれをやってたんですよね。
あーこれもある、こんなものも有るって。
自分を責めてる感じです。
自覚はないんだけど…
<中略>
ジャッジしないというのが、最大のポイントだと
今までの自分の経験から思いました。
というのがありました。
自分と向き合うのに、否定も批判も必要ありません。
自分に対しても。他者に対しても。
認めて、受け入れるだけで、いいんですよね。
人の数だけ、いろいろな、想いがあります。
それぞれの体験が、ありますからねぇ。
共感がすべてとも、思いません。
ここに、こうやって、私だけじゃなくて、
皆さんの想いや考えをシェアすることで、
それを読んだ誰かが、
何かに気づいたり、引っかかったり・・・
引っかかりを通して、また気づいたり・・・
そんな循環✨が起こればいいなと思っています。
皆さん、いつも、ありがとう。😊
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