【お知らせ】
2025年1月より、RAS認定ファシリテーターの更新制度が変更となります。ファシリ講座の受講を検討中の方は、お気軽にお問い合わせ下さいね。

【リトリート】
2025年も2/7以降で、なおちゃんとクジラを見る🐳屋久島リトリート、リクエストいただいてます。他にも希望者いらっしゃいましたら、まだ日程確定前なので、調整できるうちに早めにご連絡くださいね。今回の告知はしてませんが、以前の告知、こちらを大体の参考にしてください。
リトリートのリクエストは、場所や時期にもよりますが、宿などが取りづらいので、少なくとも開催の2ヶ月前、できれば3ヶ月前 にはいただけると嬉しいです。


【ゼニスオメガヒーリング・プラクティショナー養成講座】
2020年より『マスターティーチャーのみ』ZOOMでのオンライン授業が可能になりました。詳しくはこちら。テキストを事前に送る都合上、開催1週間前には受付終了とさせていただきます。2023年4月より対面授業も再開しますが、オンラインの方が人数は集まりやすいです。

レベル1〜5まで、ご希望に合わせて随時開催中です。他校からの生徒さんもどうぞ。お気軽にお問い合わせ下さい。授業内容について詳しくはこちら

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2016/08/25

われ思う、ゆえにわれ在り?


自分軸って何ですか?」というブログを書いたところ、
昔の職場の後輩が、こんな面白いメールをくれました。
許可をもらったのでご紹介しますね。

***

メルマガ、いつも楽しく読ませていただいて、考えさせられています。 
「自分軸」の話でちょっと思う事あってメールしました。

自分というものは分母の1のようなもので、いちいち意識しないけども、 
常に既にそこにあるものなんだと思うんですよ。 
特に日本語は主語を省略する事が多いから勘違いしがちですけど、 
「親が喜ぶからAを選択した」っていう文章は本来、 
『私は、「親が喜ぶ」と(私が)思ったから、Aを選択した』であって、 
主語は間違いなく「私」なわけで。 
「我思う、ゆえに我あり」っていう有名なあれは、 
思う存在(=私)が何とここにある!っていう驚きの表明なんじゃないかと。私がいなけりゃ、世界もないわけで。 
美しい花というものはあるが、花の美しさというものは存在しないっつう 
小林秀雄のあれも、花を美しいと思う「私が」いるという事であって、 
それはまさに分母の1。 

だから何事も他人のせいにできる事なんて何一つないんですよ。本当は自分はそうしたくなかったのに、なんて甘えは許されないんですよ。選択間違ったなーと思った時にも他人のせいにしないっていうのが大事なんじゃないかと。その選択には自分で責任とらなきゃいけない。後悔しないためには、その覚悟を持って選択するしかない。 

私の敬愛する池田晶子は、「あなたは全き自由だ」って言ってました。 
その自由たるや恐ろしいものであって、例えば何の座標軸もない真っ暗な宇宙空間に一人放り出されているようなものだと。そんなところで、何かを選び取ったり選ばなかったりしなきゃいけないっていうのは、本当に恐ろしい事です。だから何かに座標軸を求めるんであって、それが親だったり尊敬する人の言葉だったり世論だったりするわけで。自分軸ってそもそもそういうものじゃないかと。

***

そうそう、日本語ってね、よく主語をはしょりますよね。
英語はなかなかそうはいかなくて、
「I(私は)〜」で始めるわけですが・・・
「個」を常に意識する文化らしい言語の在り方だな、って思います。

対して日本人って、そんなに「個」を意識しない。
それが日本語の在り方にも現れていますよね。
明確にせずに、その背後を想像して補ったりもするし。
だから、海外の人からは「分かりにくい」「はっきり言って欲しい」とも言われたりするわけですけども。

個人的には、この「個」ってものを溶かしてしまっている日本語の表現、嫌いじゃないんですよねぇ。そっちの方が本質には近い感じがするもんで。


エックハルト・トールが
著書「ニュー・アース」の中でこんなことを言っています。

「私( I )」という言葉は、使い方次第で最も大きな誤りを引き起こすことも最も深い真実を表すこともある。ふつうの意味では、この言葉は(派生語の「私に(me)」「私の(my)」「私のもの(mine)」「私自身(myself)」などとあわせて)使用頻度がいちばん高いだけでなく、最も誤解を生みやすい。日常的な使い方の「私 ( I ) 」には根源的な誤りがあり、あなたが何者であるかを誤解させ、ありもしないアイデンティティを意識させる。この幻の自己意識は、時空の現実だけでなく人間性についても深い洞察力を有していたアルバート・アインシュタインが「意識の光学的幻」と呼んだものだ。この幻の自己意識がその後のあらゆる解釈の、というよりも現実に対する誤解のベースになり、すべての思考プロセス、相互作用、関係性に影響する。あなたの現実はこの根本にある幻を反映する。


ならば、「私」という言葉をあまり使わない日本語は、
ありもしないアイデンティティを
そんなに意識しないでいい仕組みになっている、
優れた言語かもしれませんよね。(笑)

あと、こんなことも言っています。

近代哲学の祖とみなされている十七世紀の哲学者デカルトは、この第一義的な誤りを(第一義的な真実と考えて)「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名な言葉で表現した。これは「自分が絶対的な確実性をもって知り得ることがあるだろうか?」という問いにデカルトが出した答えだった。彼は自分がつねに考えているという事実は疑いようがないと考え、思考と存在を同一視した。つまりアイデンティティ--私は在る--を思考と同一化したのである。彼は究極の真実を発見する代わりにエゴの根源を発見したのだが、自分ではそれに気づいていなかった。

別の著名な哲学者が先の言葉にはデカルトが--同時に他の誰もが--見過ごしていた部分があると気づくまでに、それから三百年近くを要した。その哲学者はジャン=ポール・サルトルである。彼はデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉を吟味しているうちに、ふいに、彼自身の言葉によれば「『われ在り』と言っている意識は、考えている意識とは別だ」ということに気づいた。これはいったいどういう意味か?自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ。その別の次元の意識が「われ在り」と言う。あなたのなかに思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。自分が夢を見ているのに気づかない夢中歩行者のようなものだ。夢を見ている人が夢のなかのすべてのイメージに自分を同一化するように、すべての思考に自分を同一化する。多くの人々はいまもそんな夢中歩行者のように生き、古い機能不全の心の癖に囚われ、同じ悪夢のような現実をいつまでも再創造し続けている。しかし自分が夢を見ていると気づけば、夢のなかで目覚める。別の次元の意識が入り込む。
サルトルの洞察は深かったが、しかし彼は依然として自分を思考と同一化していたために、自分の発見の真の意味に、つまり新しい次元の意識が生まれたことに気づかなかった。


私は別に哲学に詳しいわけではないので、
哲学を語るつもりはないんですが、
彼女の文章を読んでいて、この文章を思い出したのでした。
シンプルな文章ほど、さまざまに解釈されますからね。
私にとっては今のところ、
「われ思う、ゆえにわれ在り」のしっくりくる説明は、
これなのです。

私たちは、
思考(自我、エゴ)に自分を同一化させやすいけども、
その他に、確かに別の次元の意識も持っている。っていう、ね。


私がいなけりゃ、世界もないわけで。 

そう、私たちが体験しているこの現実は、
「私」というフィルターを通してのもの。
このフィルターは人の数だけ存在するので、
「私」を通した「世界の解釈」も人の数だけ存在する。

そしてこの「私」をどこに見出すかで、
世界の見え方は変わると思うのです。


だから何事も他人のせいにできる事なんて何一つないんですよ。
その選択には自分で責任とらなきゃいけない。
後悔しないためには、その覚悟を持って選択するしかない。 

彼女もなかなかに波瀾万丈な人生を歩んでいるのですが、
その上でこう言ってるので、
とっても力強く説得力をもって私には響きます。

何度も書いています
「あなたは自分が出したものを受けとる」ものなので、
一見他人のせいのようには見えても、結局は自分なんです。
自分が信じ込んでいること(信念、固定観念)で
現実は創られていますから。

こういう自己責任論を嫌がる人もいますが、
(その気持ちももちろん分かります)
自分次第でどうにでも創造できる!!ってことですから、
私はかえってその方がいいけどなぁ、と思います。


だから何かに座標軸を求めるんであって、
それが親だったり尊敬する人の言葉だったり世論だったりするわけで。
自分軸ってそもそもそういうものじゃないかと。

うんうん、そうですよね。
最初はそうやってできていくものだと思います。
そうやってできた自分軸が、
自分の本質と同じだったら何も問題はありません。

でももし、何かしら葛藤があるとしたら、
そこにズレが生じている可能性が大きいと思うのです。

その時は、今までの自分軸を一度疑ってみると、
「あら、これは私の本質ではないわ」
ってことが分かったりするかもしれません。


私は池田晶子さんの著書を読んだことがないのですが、
「あなたは全き自由だ」
っていうのは本当にその通りだと思います。

そして私は、それを恐ろしいとは思わない、
むしろ喜びを感じる人種に属しているようなのですが ^ ^;
それでも「信じていた自分を疑って失った先に顔を出したもの
に書いたように、自分軸を失って混乱した時は、恐れも感じました。

信じられるものが何もない、ってコワイ。
だから私たちは何かを信じようとします。
でもそれも、信じ込み。
自我(エゴ)の領域で築き上げたものに過ぎない。

そこに気づいて、本質に近づこうとすると、
今度は、どうやら個の選択の自由なんてない、、
すべては決まっている・・・って感覚になっていきます。
だってそこには分離がないから。
故に選択の余地もなく、、
常にすべてが最善。なのです。
で、サレンダー。(宇宙に、完全降伏。)


はい、頭がウニになってきましたよね。^ ^;
この辺で、やめておきます。

つれづれなるままに書いたので、
つれづれなるままに受けとって下さいませ〜。


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