7/31に4回目を開催しました、5回連続の
普段、私たちは
「キャラクターとしての私」と同一化してることがほとんど、
ですが、、
キャラクター意識とプレイヤー意識の両方から
感情の動く出来事を見てみたら、どう感じるか?
そこには、どんな違いがあるか?
それを4回目の宿題として、やっていただきました。☺️
これ、やってみるとわかるのですが、
このためには、これまでの3つのワークも活用する必要が
出てくるんですよねぇ…。
連動しています。☺️
「プレイヤー意識で出来事を見てみよう」としても、
含めていないと、なかなかできませんから。
そして、含むには、
痛み(未消化の感情)がそのままだと難しい…っていう。
どうしても、反発や抵抗が起こりますのでね。
だから、最初はね、
小さなひっかかりを感じる出来事からやって、
だんだん慣れていくのがベスト🌟
いきなり、親子関係とか、
自分にとってディープな出来事でやろうとすると、
思考で無理矢理になったり、
どうしても、痛みと戦ってしまいがちなので。。
戦うと、痛みはむしろ大きくなってしまいますからね。
でもその辺は、皆さん、もう
「どんな感情でも感じていいのだ」ってことも含め、
よく理解してて、ちゃんと感情に寄り添ってあげれている様子。👍
素晴らしい✨
誤魔化さずに、自分の本音に気づいて、認めてあげるだけで
違いますからね。☺️
最初から、うまくやろうとする必要はありません。
「これでいいのかな?」と思いつつも
やってるうちに、キャラクターと自己同一化したままでは
気づけなかったことにも、気づけるようになっていきます。
だから、宿題とか関係なしに、日々の中で、
今までやっていただいた4つのワークを活用していくと、
また、見えてくるものがあると思いますよ〜❣️
ズレやすいポイントも、
受講生にはすでにお伝えした通りなので、
そこは意識していただきつつ。
含めば含むほどに、振動数は上がりますから、
プレイヤー意識でみることも、簡単になっていきますからね。
だんだん、面白がる余裕も出てくると思います。😁
さてさて、また、
受講生同士がお互いに読み合えるように
ということをメインの目的として、
ここに宿題の感想をシェアさせていただきますね❣️
他の方の気づきを読むことで
「あ、なるほど。そういうふうにもやってみよう!」とか
発見があるかもしれません。☺️
とはいえ、
受講生じゃない皆さんも、ぜひ〜。
日々と宇宙の講座の感想は、結構読まれているのですが、
受講生それぞれにバックグラウンドも違いますので、
その分いろんな考え方や悩みがあるわけで。
だから、読む人によって、
共感できたり、お悩みのヒントとなる部分が、
いつも、誰かのどこかしらに、あるんだろうなぁと思います。☺️
講座を聞いていないと「??」な部分も
多々あるとは思いますが、
皆さん、本当に真摯に向き合ってますから✨
今回は思っていたよりとても難しかったです。
まゆさんが前もって伝えてくださった通りなのですが、
マリオ目線で起こった出来事は当事者意識を持ったままでは
とてもじゃないけどプレイヤー目線になれないことを痛感しました。
そして生じた感情をいいも悪いも含めて一度受け取り受け入れないと
含むことはできないんだと感じました。
わかってるつもりでなかったことにしちゃう感情についても
しっかり受け止めてあげないと、私は悪くないけど相手は悪い
という分離からは抜けられないことを実感しました。
あー私そう思ってたのかというものを受け止めきると
やっと感情の反発なく同じ出来事を冷静に眺められれることが
できるようになり、これがプレイヤー目線なのかな?と思いました。
プレイヤー目線は感情じゃなく淡々と俯瞰できる感じで、
「へーそっかそっか、そんなことがあったんだー、うんうん。」
みたいな感じで全面的に受け入れてはいるけれど
マリオに必要以上に共感しないような状態だなと思いました。
ワサワサした感情もなくなり、ゆるむ感じがします。
そしてその上でマリオ目線では選べなかった他の可能性を選べる
ということに気づけると自分は被害者という意識もなくなり
少し自由な気持ち軽さがあります。
でも2極の世界だからこそ感情が動いて
喜びも悲しみも怒りも振り幅が大きいから味わえるということが
この肉体と感覚を持って生きている醍醐味なんだな
というのもうっすらですが感じました。
感情のアップダウンに振り回されてるだけでは苦しいだけなので、
プレイヤー目線とやはり行き来できる状態が
過ごしやすいような気がしました。
LINEグループでの電車の中でビックリした話についての一連のトークも
今回の課題をやるにあたって大いに助けになりました。
あの時変な行動を起こしたあの人が悪いと思いっきり分離していました。
振動数の高低は善悪でも優劣でもないという言葉で
すんなり同じ振動数でマリオ目線であったことも腑に落ちました。
マリオ真っ只中だとマリオであることも気づけないのですね😂
次回最終回なんてなんだか寂しいですが、よろしくお願いします!
10個やるにあたり、やはり今もやもやがさほどないので、
過去のものを引っ張り出してきたのですが、大きく分けると、
1. あがきまくった経験があるから、
クリアする方向性がある程度見えるもの
2. あがきまくった経験がないので、ぼんやりとクリアする方向性は
見えるものの、具体的にどうクリアするかまでは分からないもの
3. 別にクリアしなくていいから流れに任せようと思えるもの
とがあったように思います。
〈1. あがきまくった経験があるから、クリアする方向性が
ある程度見えるもの〉 は、
「これまで一番感情が揺さぶられた事ってなんだったかな?」と
よくよく過去を振り返って考えてみたら、やはり一番は新興宗教でした。
昔3年くらい付き合っていた彼Kが、蓋を開けたら新興宗教
(T教会ではないが、T教会を真似たのか、完全に手口は同じ)に
どハマりしていた事が分かり、その時は自分の人生史上最高に
イライラしたというか、怒りともまた違うのですが、
彼の善良さは間違いないのに、話が全く噛み合わず、とにかく
暖簾に腕押し甚だしい状態で私の精神は乱れに乱れていました。
私はもともとスピリチュアルな事に特段強い関心はありませんでした。
特定の信仰や宗教も持っていません。
それで、付き合って半年くらいした時に、Kから
某新興宗教の教祖の書籍を数冊プレゼントされw、
筋金入りの無宗教一家で育った私はこの手の事に全く慣れておらず、
内心ひぇ〜〜〜!!どないしよ?!?と思いましたが、
それは一旦横に置いておき、彼がその宗教(ではなくただのカルトですが)
を信仰する事になったきっかけ、普段どんな活動をしているのか、
その宗教のどこに魅力を感じているのか、その宗教の献金システム、
ご両親も信仰しているのか…等、最初は反対するでも賛成するでもなく、
ただ相手の話を聞いていました。
そして教祖と教団が出している本を自分でも読み、
教団の訴訟履歴を調べたところ、ただのカルトだと確信を持ち
(銃撃事件からカルトと政治の関係がクローズアップされていますが、
T教会と繋がっている政治家の大半は、このカルト教団からも
高額献金を受けている事が明らかになってきています。
当時は全く知らなかったので、自分で訴訟履歴を調べて、
問題のあるカルト教団だと気付きました)、
頭に血が上った私は即座に新幹線に乗り東京に向かい、
ブチ切れながらKの通っている教団の支部に乗り込み、
「Kが医者で金持ってるからってコイツから金巻き上げてんじゃねーよ!」
「お玉串の帳簿出せや!」と
支部で横山やすしバリにさんざんキレ倒しましたw
しかしカルトとはノウハウだけはしっかりしていて、
T教会のT会長の如く、教団の支部長は穏やかな口調で、
Kがいつも仕事帰りに支部に寄り、患者さんのために一心不乱に
形代を書いて病気の治癒を祈っている事を語り(Kは患者さんを
西洋医学で診て効果がなければ漢方、漢方でダメなら祈っている
といつも言っていました)、
「Kさんをおもって遠路遥々こちらに乗り込んでいらっしゃった
貴女の熱い思いには胸を打たれました」と穏やかな笑顔を見せながら
涙をこぼしてきました。やすし横山は支部長の涙に引きながらも、
持参した訴訟履歴のコピーを支部長に見せましたが、
そこの対応もぬかりなく、
「生活が苦しく、お金欲しさに教祖さまを悪者にでっちあげて
訴訟を起こされたのですが、原告はまだ若い女性だったので、
その方の将来を思って(その娘の名前が世間に広まらないように)
教祖さまが配慮して示談にして差し上げたのです」とか、
全てにちゃんとストーリーも用意してありました。
もう、どこに行って誰と話しても暖簾に腕押し状態でした。
当時は支部に乗り込んでキレ倒したり、
時には一緒に信仰しているフリをして神事に参加してみたり、
またある時は瀬戸内寂聴の風体で現れてみたり(←⁇)、
「教祖ではなく、私こそが真の預言者である」
と預言者タイマンを張ってみたり(←⁇)、
「まぁ、月々献金して、ちょこちょこ神事のために仕事休んで遠征して、
教祖のグッズ買うとか、オタ活と変わりないと割り切って諦めるか…」
と考え直してみたり、宗教全般について勉強してみたりと、
ありとあらゆる手段と、さまざまな角度から割り切ろうと試みましたが、
どれも意味はありませんでした。
当時の自分に言ってあげられる事があるとすれば、
・これには何年、何十年単位で時間が必要な事だから、
それに根気強く付き合う覚悟があるか?あるとすれば、それに
根気強く付き合う意味は何か?なぜそうまでしたいのか?
・あなたは「助けたい」と思っているかもしれないけれど、
相手はそもそも助けを求めていないから、助けを求めていない段階で
「助け」を押し付けても意味がなく、むしろ向こうもこちらが
宗教の良さがまだ理解できてないのだと、
更に信仰を押し付けてくると思われる。
向こうが献金や過酷な神事に疑問を持って、こちらにそれを少しでも
話してくるようなタイミングが来る時まで待つ方がいい。
・カルトは一旦置いておいて、例えば恋人や夫のように、
切ろうと思えば切れる関係であるならば、その人に固執しているのはなぜか?
だと思うのですが、これらはさんざんあがきまくった今だから言える事
(見えるクリアに向けた方向性)であって、そんな経験がなかったら、
私はこんな事自分に言ってあげられないと思います。
まゆさんが前回の講座で「こういうこと(スピリチュアルな事)を
学びたいって、何もなければ思わない」というようなことを
おっしゃっていたと思うのですが、
今回の課題を通して思い出したのですが、
私の場合は間違いなくKの新興宗教がきっかけだと思います。
この講座を通して、更にかけてあげられる言葉が増えた(というか、
こういう視点もあるよという別の見方の提示もできるようになった)
と思うので、やはり私には必要なあがきだったと思っています。
〈2. あがきまくった経験がないので、ぼんやりとクリアする方向性は
見えるものの、具体的にどうクリアするかまでは分からないもの〉 は、
例えば「人の期待に応えるのをやめる」という前回の課題がありましたが、
私は前回書いたように、学生時代は
生きるか死ぬかのギリギリの生活をしており、なんとか仕事と
仕事を通して出会った人たちに救われてきたので、
生きるためには仕事をきちんとやるべきという思いが強いと思います。
最初の課題を思い出して、
「生きるためには仕事をきちんとやるべき」の反対
「生きるために仕事をがんばらなくてもよい」を考えてみるのですが、
そのような体験(頑張らなくてもいけた体験)が自分にないので、
結局具体的にどうしたらいいかまでは分かりません。
〈3. 別にクリアしなくていいから流れに任せようと思えるもの〉 は、
まゆさんが教えてくださった
「あなたと私/みんなにとっての最善でありますように」と心底思えたら、
とたんに全ての(自分が思い描く)流れがどうでもよくなります。
誰かを自分の思い通りにしたいと思った時に、
ただただあなたと私に必要な事が起こったらそれでいいと思えたら、
執着もへったくれもあったものではありません。
「私にはあのあがきが必要だった」と自分でも書いているように、
お互いにとって必要な出来事が起き、
お互い必要な経験をする事を尊重できたら、
それで私たちがくっつこうが離れようが、仲が良かろうが悪かろうが、
どうでもいいです。
ここでジャンプしようが転ぼうが、壁をひょいっと越えようが、
別になんでもいいです。
キャラクター意識とプレイヤー意識で体験してみる、をやってみました。
今のことよりも過去の出来事を思い出してやりました。
キャラクターでの体験だと、やっぱり喜怒哀楽が前面に出るというか、
私が私が!、と本当に直に体験しているんだな、と感じました。
それが、プレイヤーになると、まぁ気持ちはわかるけど落ち着いてよ、
と客観的に見ることができました。
お店で会った知り合いかもしれない人に声をかけるかどうか、
の話じゃないですけど、私は一言言ってみれば済む話かもしれないのに、
言わずにモヤモヤしたり、一回伝わらなかったら
そこで諦めてしまうことが多いのかもしれない、と思いました。
夫も知り合いかもしれない人がいれば、その場で確認していました。
それで間違っていたこともあったのですが、それを特に気にせず、
違ったかー、とただそれだけで済ませていました。
夫の場合は、気になったから確認した、だけなのだと思います。
だから、別に違っていたら、違っていた、だけのことなんですよね。
私なら、相手がどう思ったかな、とか余計なことを考えてしまいますが、
そんなこと気にしなくていいんですよね。というか、
相手もそんなに気にしてないんですよね。
今までは、どうせ誰も自分には期待していない、という思いから、
誰も自分のことなんて見ていない、と思っていました。
けど、少しだけですが、自分だって周りの人のことを
そんなに見ていないのだから、周りだって自分をそんなに見ていない、
と思えるようになってきました。
過去の出来事では、親に対してのものもいくつかあって、
それはなかなかすんなりとプレイヤー意識で見ることはできませんでした。
この講座でも、他の機会でも、
親に対しての色々な感情が出てきている時なので、
そりゃ簡単には切り替えられないよね、と
ちゃんと寄り添うようにしました。
ずっと今まで蓋をしてきた感情だと思うので。
親に対して、マイナスの感情を持つことは親を否定することになる
と思っていましたが、この講座を受けて、感情には寄り添えばいいから、
相手にマイナスの感情を持ったとしても相手を否定する必要はない、
とわかってきたので、
思いっきり親に対して怒ったり悲しんだりできてよかったです。
プレイヤー意識になると、客観的にも見れるし、
キャラクターが望む結果にならなかったとしても、
思った以上にすんなり受け入れられました。
これができるようになると、自分も楽になるし、
起きた出来事を楽しめて
自分の経験としてより活かせるようになりそうです。
まずは、以前の宿題で書き出した、引っ掛かりを読み直してみました。
そして、ゲームというよりは人形劇で人形を操作しながら
上から見ている人の視点が思い浮かびました。
数年前に転勤のため単身で引っ越されていて、
もう何年もお会いすることもなかったのですが、数日前に急に
お会いする機会があり、突然の事だったので驚きました。
その場は、懐かしい顔が集まり嬉しい会だったのですが、
その方が急に来た時にはなんとも言えない感情が湧きました。
この講座を受けている最中にこういう事が起こるのもすごいな!
と思いつつ考えてみると、昔の怒りの感情は沸きませんでしたが、
顔は笑っているけれど目が笑ってなかったかもしれません😓
胃がギュッとはしないけど、モヤッとする感じ。
やはりあの人は面と向かって会いたい人ではないなと思いました。
それをプレイヤーの視点から見ると、
改めて気持ちをたしかめかったのでしょうか?
そうだとすると、まだ消化しきれていない事がわかりました。
想像では、もう解消していると思った気持ちも、
そう簡単ではなかった様です。
地道に自分を振り返り、心に問いかけて、
手当てしてあげないとと思いました。
義母に対する怒りは、今はもうほぼないと思うのですが、
これもまた数日前に思い出の場所に行く機会があり、
いろいろな思い出が思い起こされました。
感情的には全く穏やかなものでした。
義母に対しては、今となっては感謝の気持ちの方が大きいです。
彼女の存在があったからこそ、スピリチュアルを知りたいと思い
今に至っているからです。
義母とのいろいろな出来事をプレイヤーの視点で見れば、
私の人生の中ではかなり大きな出来事で、そこでいろいろ経験させて、
スピリチュアルの学びの方へ意識を向かわせる事をしたかったのか
と思います。
キャラクターにとっては辛かったり、マイナスのような事を
あえて経験してもらい、どんどん体験させ、経験を積み重ね、
少しづつ気づきを得て、いろいろな目線で考えられるような
キャラクターにしたいのか?と思いました。
つい最近人間関係でイライラした事があったので、
それについても考えてみました。
何のためにこの人間関係があり、
こういう気持ちになる状況になっているのか?
いろいろな人がいて、自分にはない価値観の人がいるという事を
身近に感じるためなのか?と思いました。
10年来のママ友5人グループで、みんな優しくて良い人達なのですが、
なんだかイライラする事があります。
そのLINEグループなのですが、つい最近も大量のLINEを読みながら、
イライラし、文句ばかり言っていました。
そして、なぜそんなにイライラするのか考えてると、
自分の枠に当てはめて、自分の価値観と違っている事なので、
イライラしてるのだと思いました。
私だったらこんな事しない、私ならこんな事言わない。
こんな事くらいで大変大変て何を言ってるの?
こんなどうでも良いこと人に聞いてもらいたいの?
と、
全て私のあたりまえ、基準と合わないからイライラしているようです。
その人にとっては、どうでも良いことではないかもしれないし、
大変な経験をしてるかもしれないし、
ここでストレス発散しているかもしれないし、
それを私が判断することではなかったのだと思います。
それと、こんなどうでも良いつまらない話をされた事で
時間を奪われて、と被害者意識にもなっていたと思いました。
私は辛い事があった時、あまり人に話さない方だと思います。
話す時は、話をわかってくれそうな人とじっくり話せる時にです。
普段から大変大変と言ってくる人に対して、甘いと思っているんだな
という事に、今書きながら気づきました。
十分幸せな環境にいるのに文句ばかり言っていると思っているけれど、
私にはその人の本当は全てわからないのに
私の視点だけで考えていました。
それと、自分に対して甘えても良いんだよと、
そこに気づかせたかったのだろうとも思います。
特に過酷な環境で育ったとも思わないのに、
なぜ甘える事ができないんだろ?
そこについては、
もう少し考えてみる必要があると思いましたし、
友達に対してももっと甘えたり、頼る事をしてみても良いのかも
と思えてきました。
プレイヤーの視点では、キャラクター達はそれぞれ
一生懸命頑張って行動していて、イライラしたり、傷ついたり、
様々な経験しているのを上から微笑んで見守っていると
いうイメージが浮かびました。
子供の頃にやっていた、西遊記というドラマの最後に、
いろいろ旅をしていたけれど、全てお釈迦様の掌の中だった、
というお話があったように思うのですが、かなりうる覚えで、
思い違いな気もするし自信ないのですが・・・
プレイヤーの視点とはそんな感じなのかな?と思いました。
全てを見通していて、みんなのことを見守っているようなイメージです。
プレイヤー目線だと、いろんな事をやらせて、経験させて、
経験値を増やしたいですよね。
人生の目的に向かっていろいろな事をやらせてみたいと思うと思います。
キャラクターは、どうでも良い事にこだわっていたり、
気にしすぎだったりで、もっと、大らかに自由に生きたら良いのに
と思います。
プレイヤーの様に全てを見渡せる状況だとその様に思えても、
キャラクターだと目の前の事しか見えていないので、
その状況にいちいち反応してしまうのでしょうね。
私も周りの人や状況に左右されず、
周りが見えているようなキャラクターになれたら良いなと思いました。
プレイヤー意識は、想像の範疇でしかなく、
私にとってはまだまだこれからなのかなと思いますが、
少しずつその視点に立てる様になりたいと思いました。
宿題をやってみて 腹を立てていたことに対して、
心を閉ざすような対処法ばかりをしていて
これまでそれしかしてこなかったのかも、と思いました。
プレイヤー目線になると
肝心なのはそこではなくて本当に立ち向かうべきミッション
のようなものが浮き出てくるのですが
中にはそのミッションまだ無理かなーと思うものもあります。
それにはまだ消化しきれていない部分があるのかもしれません。
衝突を避けてきた、ということもわかってきました。
知らずしらずに演じていた自分の姿や、
理想の姿に映るように仕向けていた自分にも。
プレイヤー目線になる、というのが
最初は頭で作り出してしまっている感じがあって
しっくりこない部分もあったのですが
何か伝えたいメッセージがある、伝えるようにと意識してみたら
プレイヤーの意図も少しずつ見えてきました。
普段自分が無意識に他者へ仕向けていることや
自分が怒りを感じるように
それをきちんと伝えられるように
正面からぶつかれるように
プレイヤーは気づかせようとしていました。
無理をする必要はないけど
心を閉ざす必要もない
心を閉ざしたからといって誰も拾い上げてはくれない
無理に動く必要はないけど
プラスになることは必要
エネルギーの交換をすること
素直になりなさい
それを伝えなさい
伝える勇気も必要
そんなことを訴えかけてきているようでした。
まだ向き合いきれていないものもあるので
じっくりと時間をかけて味わっていきたいと思います。
散歩しながらこの宿題について考えていたら、
色とりどりな感情を味わえて人生っておもしろいな〜って感じました。
これまでの宿題もそうですが
自分に向き合うための方法として、
プレイヤー目線で物事を見る、ということを
忘れないようにしたいと思いました。
お盆に数年ぶりに家族3人が揃いました。
父が亡くなり、残された母、姉、私はそれぞれ別の場所で仕事を持ち、
単身で暮らしています。
もともと、毎年イベントがあるたびに親族が集まるような
絆の強いタイプの家族ではないので、
それぞれが自由に生活している感じです。
そんな3人が久しぶりに集い、数日間一緒に過ごすだけで案の定、
早くも雲行きが怪しくなるわけで…。
最近車の免許を取った姉が
地元で運転をしたいと張り切っていたのですが、
隣で座っている母は気が気ではない様子であれこれ口出しをし、
それを疎ましく思う姉、そして後部座席からそんな2人を眺めている私…。
誰もが苛立ち、重たい空気の中、逃げ場もない。
お昼ご飯は予定をしていたお店がお休みで、その後も2件連続で空振りで
空腹もピークに達していました。
私はこの状況にうんざりしながら、
待てよ、これって前にも体験したことある…と、
古い記憶が蘇る感じがしました。
中学から高校にかけて、姉と私が家を出るまで3人で過ごした時期、
家庭内の空気が荒んでいました。
父を喪ったことの寂しさを各々が感じているのに、
決してその思いを家族で共有することはなく、
その思いを抱えながら個々で耐え忍んでいる。
その悲しさ、寂しさは今でも覚えています。
姉は時おり母に反発し、母も負けじと応戦する。
私はその場の雰囲気に飲み込まれて、
自分ではどうすることもできないと、
この状況をひとり嘆くことしかしていませんでした。
そんなことを思い出しながら、
(プレイヤー意識とまではいかなくても)
ちょっと俯瞰してこの出来事を見ていると、
過去と同じような反応をするか、どうする私という気持ちになりました。
嫌な雰囲気を味わっている中で、
ちょっとニヤリとする自分をどこかで感じていました。
結局その場ではそこまでで、夜一人になったところで
昔のことを含めいろいろ感情を味わっていると、
当時も同じベッドの上で一人で泣いていたなぁと感慨深かったです。
そして思ったことや感じたことは腹に溜めずに伝えようと思いました。
できるだけシンプルに素直に時にかわいらしく(笑)。
プレイヤー意識なら、同じところでいつもつまずいて
攻略できないゲームのひとつという感じでしょうか。
母も私と似たところがあるので、このゲームを選択していると思います。
後日、母と姉それぞれにタイミングをみて伝えましたが、
私自身が穏やかに伝えられただけで満足でした。
姉は『前も同じことを言っとったね』と。
私は家族でどこかに遊びに行くよりも、自分が大事にしている思いを
語ることの方が望んでいることだったんだなと思いました。
数日一緒にいるだけだから、敢えて耳に痛いことを言わなくても
我慢すればいいという考えはどうしても嫌でした。
自分が痛みとして持ち続けている感情を手放していく出来事が、
いろいろここ数ヶ月で起きているなぁと感じています。
きっとこういう講座での学びがなければ、
ただの嫌な出来事のひとつとして
記憶の奥の方に押しやられた可能性が高いです。
プレイヤー意識からは、もうそろそろ前に進みませんか
と催促されている感じがします。
今回母の態度が意地を張っているように感じることがあり、
私と似てるわ~と引いた目線で見ていました。
他人に自分を見ると、昔は許せなかったのですが、
今は手に取るように母の気持ちが分かって、
両方の立場のことが分かるって含んでいくことと同じだと感じます。
【日々と宇宙の講座ベーシック第二期】
【日々と宇宙の講座アドバンス】
【日々と宇宙の講座ベーシック第一期生の皆さんのシェア】