8/28に5回目を開催しました、5回連続の
最後のワークは、何にしようかな?と思ったのですが
前回のワークで、
「プレイヤー意識になるのが難しかった」
という感想も多く見受けられたので、
映画や漫画や小説、という
プレイヤー意識になりやすいであろうもの を通して、
やってみていただくことにしました❣️
自分ごとというのは、どうしても
(そこに未消化の痛みがあればあるほど)
プレイヤー意識になるのは難しいものですが、
他人ごととなると、 痛みが邪魔しない分、
ぐっと簡単になったりしますからね。
ただ、『同じ痛みが働く他人ごと』の場合は
やっぱり難しくなったりしますが。😅
・・・でも、感想を読んでみると、
「プレイヤー意識ってなんぞや?」と
ますます混乱した方々もいる様子。。😂
善悪に対するジャッジが働くと
なかなかプレイヤー意識にはなれません。。
映画で例えるなら、
観客目線でもなく、批評家目線でもなく、
監督目線、が一番近いかな。
(実際の監督には、ジャッジもありますから
あくまでも「近い」と表現しています。)
どうしても、頭でやろうとすると混乱しやすいので
「力抜いて意識的に読むことを手放した時に
ふと訪れるようなことなのかなと。 」と
書いてくれた方もいましたが、
そんな感じがいいかもしれません。
その辺は、
グループLINEの方でもフォローしましょうね。☺️
さて、今回の課題では、
1)漫画「イティハーサ」
2)手塚治虫「火の鳥〜鳳凰編」 漫画 or アニメ
3)「八日目の蝉」
映画 or 小説
この3つのうち、1つでも3つでもいいので、
1回目は普通にキャラクター意識で
2回目はプレイヤー意識で 読んでいただき、
その感じ方、見え方の違いなどを通して、
気づいたことや思ったことを書いていただきました。☺️
「イティハーサ」は以前ブログでも紹介して
ハマる人が続出したので、語る会までやりましたねぇ。😂
1)だけにしようかな、とも思ったのですが
なにせ7巻もあるので、、😅
読み出してしまえばあっという間なんですけどね、
「忙しくて無理〜」という方もいるかと思い、
この3つからの選択制にしました。
どれも、『善悪』について考えさせられるもの。
いつものように、あくまでも、受講生同士が
読み合うことで、理解を深めたり、気づいたりするため
をメインの目的として、ここにもシェアしますね。☺️
でも、読んだり見たりしたことのある方は、
感想として読んでいただくだけでも興味深いのではないかな
と思いますよ❣️
今回は「イティハーサ」を読んでみることにしました。
気になってはいたものの、長編だしと躊躇して手をつけずに
いたのですが、この機会をいただいたのも何かのご縁と
覚悟を決めて選び、読み始めました。
1回目
最初はキャラクターや物語について追うのに一生懸命に
なっていましたが、気づけばドラマの中に入り込んでいました。
そして途中何度か大号泣しました。
どのキャラクターに思い入れがあるというわけではないものの
ところどころでその気持ちに入り込んで、かなり感情移入してしまい、
翌朝目が腫れるくらい泣きましたw
抗えないこととか自分ではどうしようもないこととかについて
自分の中にある同じような部分が反応したのかなと思いました。
夜中に読み始めたのですが、止まらずで
途中仕事を挟んで、
昼休憩中にも読んだりして帰りの電車で読み終えてしまいました。
壮大過ぎて、「そうだい。。」と
幾度となく呟きそうになってしまうくらい。
そして仕事上のこととから日常の些細な悩みなどどうでもよいな
と吹き飛んでしまうくらいにドラマに入りこんでいました。
登場人物が皆魅力的なのもあり、いいも悪いもないなということを
とても感じました。
そして講座の中でも出てきた
神を自分より上にしてしまうと分離してしまうということも
とても腑に落ちました。
良き事をすれば良いわけではないということ、
盲目的に信仰することについても、こうゆうことなのかというのが
とても明快に描かれていたのもとてもわかりやすかったです。
最後の方ではもういいも悪いもないというのを強く実感して
鍛えられたのか、色々受け入れてしまって、どんなことが起ころうとも
案外悲しみも痛みもなく受け入れている自分がいて、
あれ?これってプレイヤー目線なのかな?などと思ったりしました。
善悪など問いかけられごちゃ混ぜになって
脳トレになりましたが、
物語の持つパワーを浴びてこんなに時空を超えて響いてくるんだ
ということを実感しました。
2回目
1回目を読み終え、いざプレイヤー目線でと思ったのですが
やはり感情が入ってしまいそうだったのと、
壮大な物語に向き合うには体力気力も必要だったので、
しばらく時間を空けてから読んでみることにしました。
あらすじも知っているし、どんなに冷静に読もうと思っても、
影響を受けないように薄目で読んだりしても涙が溢れて
やはり感情が揺さぶられる部分がありました。
登場人物の素直さや懸命さに心が響いてしまいました。
そして魅力的なキャラクター達だと再認識しました。
宿題にならない…と思いつつ、
場面によっては前回同様少し俯瞰して読めました。
抗わず受け入れている感覚で淡々と醒めてる感じでした。
でも通してその意識でいることはできなかったです。
2回読んでみて思ったのは、私の場合は
意識してプレイヤー意識でいるのは難しく、
1回目読んでいる時にプレイヤー目線で読んでいなくても
勝手にプレイヤー目線になっていた時があったりしたので、
集中してゾーンに入ったりしたときには
プレイヤー目線になりやすいのかなと思いました。
それは力抜いて意識的に読むことを手放した時に
ふと訪れるようなことなのかなと。
善悪も好き嫌いも関係なく、生きていようが、死んでしまおうが、
結ばれようが引き裂かれようがどっちでもよくて、
あること起こることを淡々と受け入れる感覚というのは
得難い経験でした。
でも悩み迷い葛藤するのも、それはそれで人間味があって
魅力的なことなんだなとも痛感しました。
心を揺さぶられる魅力的な物語に出会えたことを感謝しています😊
他のもう少し思い入れがない話だったら
全体をプレイヤー目線で見られるのかな?とか、
その時の体調とかにも左右されるのかな?などと思ったりもしたので、
また折りをみてプレイヤー目線で読むことを試みてみたいです。
八日目の蝉の映画を見ました。
完全な他人事となるとより俯瞰して物事を見られるのかな?
と思いましたが、今回の課題で逆に
「プレイヤー意識で物事を見るって、
実際のところどういうことなんだろう」と、
更によくわからなくなりました。そして、
「物語全体を俯瞰して見よう」とすればするほど、
ものすごく頭を使って考えてしまいました。
前回の課題である、自分の事を俯瞰して見ることより、
他人の事を俯瞰して見る方が遥かに難しいと感じました。
幼い頃に連れ去られた恵理菜が本当の両親のもとに戻されても、
なかなか懐くことができず、本当の母親がヒステリーを起こす
シーンが何度かありました。母親が精神的におかしくなる姿を
「そうやわな、それはそうなってしまうよな」と思って
見ていましたが、希和子が薫に愛情を注いできた数年間のシーンを
見た後には「そうやわな、薫ちゃんそんな簡単に本当の親に
懐かれへんよな」とか、「希和子も秋山夫婦を苦しめたいっていう
動機はなさそうやし、ただただ薫ちゃんが本気でかわいかったんやね」
とか思いました。
各登場人物の背景事情が分かれば、「そうなってしまったんやね」
となりますが、映画にも小説にも尺があるので、
その尺におさまりきらなかった分(映画や小説に描かれなかった
エピソードや、各登場人物の背景事情)については分からないので、
描かれたエピソードの範囲内で「そんな事情があったんやね」
となります。
千草が恵理菜に「あなたは何も悪くない」と言うシーンがあって、
最初は「そうや。アンタだけは間違いなく何も悪くない」と思いました。
赤ちゃんの頃に連れ去られたのだから、
彼女にはどうすることもできなかったのだから、
この中で恵理菜だけは間違いなく何も悪くないと思いました。
しかし後になって、他の登場人物の出生については描かれていないわけで、
他にも幼少期に不可抗力によって心に傷を負った人物も
いたかもしれないわけで、そうなると
「恵理菜だけが間違いなく何も悪くない」も違うか…と思いました。
私が自分の出来事を俯瞰して見る方が遥かに楽だと思ったのは、
自分はあの時どういう心情だったのか、それはなぜそうなったのか、
という情報は(それを適切に分析できるかどうかは別として)
一応自分の中にすべてあって、他人について分析や批判せず、
あくまで「自分」がその時どう思ってどう行動して、
それはなぜそうなったのかに注目しているだけだったからかもしれません。
それから、自分はこれまで同様の経験を何度してきたかも
自分の中では把握しているはずなので、一回目なら「学びやで!」
とネタと肥やしにし、さすがに二回目だと
「いい加減学んで次行きなはれや!」と、自分に対してなります。
他人の事は100%知ることはできません。
(自分の事ですらよく分かっていませんし、シンプルに忘れている事も
多々ありますし。)
直接ご本人に何度も何度も質問して深く掘り下げられる状況にあるなら
多少は違うとは思いますが、
映画や小説(ニュースもこれに近いかもしれません)は
尺が決まっているため、あくまでその尺におさめられた内容だけでは、
実際には何もわかっていないのかもしれません。
その状態で俯瞰して見ようとすると、
全員が「私めっさ不幸でっせ!」感がすごくて(暗い映画だったもんで)、
各々悲劇の主人公的な感じがただただ滑稽に見えてきてしまい、
果たしてこれは課題をちゃんとやれているのかどうか、
俯瞰して見るって、結局どういう事なんやろ…となってしまいました。
でも、この全員の「しんどいっす@悲劇の主人公」感(物語)を
設定しているプログラマーがいるのか…?と思うと、
この手の出来事は一回経験して学びにするなら意味のあることかも
しれないけれど、二回三回重なると
(例えば、映画の中でもありましたけど、
「嫁とはいずれ別れるつもりだ」という古来より受け継がれしダメ男
の伝統芸。飛鳥時代から(←知らんけど)擦り倒しているネタとは知らず、
私だけに披露されしモダンアートだと思い込んで
一回乗っかるならともかく、新喜劇のオチか古典落語の演目くらい
何回も擦り倒したネタに何度も乗っかるとかは)、
プレイヤー側もコントローラーを置いて
そっと画面の前から去りたくはなります。
何度も同じ悲劇の舞台を引っ提げて登場してくるのは、
登場してくる方も見せられる方もしんどいだろうなと思いました。
最後の課題、難題でした…。
イティハーサを選んで読み始めると、夢中になってあっという間に
読み終えてしまったのに、溢れる思いが言葉にまとまらない!
まだまだキャラクター意識真っ只中な生活を送っていますが、
この講座を受けていなければこの物語を
透祜と鷹野の壮大なラブストーリーとして、
そこを中心に読んでいたかもしれないなぁと思います。
そして、善と悪、分離と統合など相反するテーマが沢山でてきますが、
どちらかに偏った視点で
(例えば亞神はいい神で、威神は悪い神だから亞神を応援する、
みたいな感じで)読んでいたかもしれないなぁとも思いました。
物事の両面を沢山描いているからこそ、より複雑で深みがあって
魅力が増すのでしょうが、その狭間で心が揺れまくり
キャラクター意識だと心が散り散りで大忙しでした。
もう少し大きな視点で見ると、イティハーサ語録を作りたくなるくらい
好きなシーンでいっぱいです。
天音を神と敬い、いっさいを捨てれば約束される幸福の前で、
『あたしがあたしであるために、忘れたいことを天音さまに
お預けすることはできない』と告げる透祜、とても清々しかったです。
苦しくつらい体験が多かった夭祜の記憶を消し去ることで
幸せになるのではなく、すべてを認め受け入れるからこそ
ある幸せに透祜は気付いていたんでしょうね。
そして夭祜を受け入れることで今までとは違う、
鷹野の知らない者になるかもしれないという場面では
『それでも…そうしなきゃ…』と言う透祜。
自分自身を統合していくシーンが力強いメッセージのように心に響きました。
夭祜を統合した透祜が、威神、亞神、どちらか一方の世界を選べない、
選ぶ必要がないと言っていた場面はとても印象的でした。
もはや善とか悪というカテゴリーでとらえていないんだなぁと。
これが含むということだと理解しました。
青比古の生きざまそのものですね。
青比古は運命を受け入れ相手を受け入れ、誰に対しても優しく
期待もしないちょっと人間離れしたような感覚の持ち主ですが、
だからこそ櫛を作る過程で哀しみと幸福を知るシーンは尊いなぁ
と感じました。そしてその心を砕いて那智を救済したシーンも…
含むということは選べる選択肢が増えるということ。
その対局にある生き方をしているのが不二の里の人々でしょうか。
すべてを捨てて天音のもとで信じ祈っていれば幸福が約束されている。
一見魅力的ですが、不自然で脆く限界があるなと感じました。
そしてそこではやさしいベールで隠されている『知る』ということ。
私は『知る』を探求し、もともと亞神であるのに威神(しかも首魁)に
なってしまった鬼幽に興味を持ちました。
『ひとは善神によってのみ救われるのではなく、
それぞれにそれぞれの形で救いの道を求めることができる』
なんて懐が深い言葉なんだろう、そして自由を感じる言葉なんだろう…
こんなことを言う人だからこそ、
裏切り者の那智や夭祜と統合した透祜を特に気にかけ
側に置いておこうとしたのかなと思います。
話は変わりますが、イティハーサを読んでいて
改めて含むということを考えていると、
好きと愛することの違いについて、
なんとなく分かってきたことがあります。
好きや嫌いは分離している状態で、
愛するはその両方を含んでいる状態なんだなと。
まゆさんが、好きと嫌いは同じ横軸の話というようなことを
言っていたのが、やっとそうか~と思えるようになりました。
自分の体験に照らし合わせるとなかなか分からないことも、
物語を通してだとすんなり分かったり、
楽しんで学べる感じがありました。
正直まだまだ分からない部分も多く読み込めていませんが、
皆さんの感想でより理解が深まりそうで読むのが楽しみです。
物語のエンディングで、夜彲王と融合する選択を迫られた透祜は、
自分の人生を超えて宇宙の大きな流れに乗るような壮大なことを
すんなりと受け入れます。
その反面、これまでその大きな流れにサレンダーするように生きてきた
青比古は、改めて青比古として個性を与えられた上で
桂と生きていくというそれぞれの道が対照的で面白いなと思いました。
今回は3つの課題が出ましたが、1度すべて見て、
その中でもイティハーサがわからないところもいろいろあって
じっくり読んでみたかったのでそれをもう一度読みました。
八日目の蝉については、実の母親のキャラクターが
もう少し普通だったら感じ方がかなり変わってくるのではないかなど、
なぜか実の母の設定の方が気になってしまいました。
もしかしたら、離れ離れになっていなくてもちゃんとした子育ては
できていないタイプの人かもしれないけれど、彼女も彼女なりに
もがき苦しんでいたんだろうなとか、
そちら側の視点を考えてしまいました。
この文章を書きながら、
昔見た『悪人』という映画のことを思い出し、
悪ってなんだろうみたいなことをぼんやり感じたのを思い出しました。
イティハーサについては、とても引き込まれましたが、
あまりにも壮大なストーリーなので、
どこまで理解できているのかわかりませんが今思ったことを書いてみます。
善の中にも悪があり、悪の中にも善があるというお話は、
いろいろなキャラクターや物語から理解できました。
人間というものはいつもゆらいでいて、
善と悪を行ったり来たりしているんだろうと思います。
善と悪の定義については、その人が見ている世界同様、
人の数だけあるんだろうと思うし、何が善で何が悪なのかは、
その時その時でも変わってしまうだろうと思いました。
話の中に出てくる、目に見える神でさえも、
迷ったり揺らいだりしていました。
思い込みってすごい力だと思います。周りが見えなくなってしまう。
漫画を読んでいる人にはわかる部分でも、登場人物本人だとしたら、
そうそう気づける人はいないだろうと思います。
私の身近な人が殺されたら、やはり、
殺人=悪人だと思うと思います。それを自分の事として、
分離せずに考えられるかはちょっと自信がないです。
不二の里については、現代の宗教にも通づると思いました。
教祖を崇めて救いを求め、その中に幸せを見出す。
本当の自分というものが無くなってしまうが、その中にいると
それがわからなくなるんだろうと思いました。
そこから出るのも怖くなるだろうと思います。
自分自身で考え、自分自身を生きる事ができなくて
もったいない気もしますが、そこにも何かの学びはあるんだろう
とは思います。
不二の里は悪のない桃源郷の様でしたが、
悪を無理やりなきものにしてしまう事で
全てを善にしようとするやり方は、一見良さそうで、
でもそれでは違うんですね。やはり、思い込みの力ってすごいですね。
神でさえも誤った道に進んでしまう。
でも、いろいろな考えがあり、いろいろな事が起こっても良いのでは?
と考えるとそれならそれでも良いのかもとも思いました。
人間は間違えるものだから、いろいろな事が起こっても良いのかも。
それを強制されてしまうのはダメかもですが、
自分で選ぶなら良いのかな?などと考えていたら、
なんだかよくわからなくなりました。
人間が生まれてくる意味は、何かにすがるのではなく、
自分自身の意思や考えを持って自分自身を生きるという事で、
自らが選択した人生を歩むという事なのかなと思いました。
地球に生まれてくるという事は、
そういった体験をしたいという事だから、
地球に生まれてきたい魂がたくさんあるのかなと思いました。
片方だけではなく、善を知って悪を知り、悪を知って善を知り、
善悪両方を含み、揺らぎながら進化していく為に人は
地球に生まれて、辛い経験も必要なんだろうと思いました。
漫画の中の悪の象徴は、殺人ですが、現代では
そこまでの経験をするのはなかなか難しいと思うので、
日常での小さな悪を経験しながら、またそれらを
含めるようになれたら良いんだろうなと思います。
今世で、大きな悪がないとしても、きっと前世でも
いろいろな悪を犯していると思うので、魂レベルでは、
体感しているんだと思います。
それが、実感として思い出せなくても、きっと
魂に刻まれているという事なのだろうと思います。
まゆさんが、先日ホオポノポノの話をした時の、
ごめんなさいと、許して下さいの話と繋がってそう思いました。
あれに関しては、特に許してください、に引っかかりがあり、
私も同じ疑問を抱いてましたが、その事を知って
すごく納得した記憶がありました。
ただ、よくわからないのが、
そもそも善だけではなりたたないものなのか?ということです。
宇宙には平和しかない星があるのではないかと思うのですが、
そこではどうなんだろう?と。
次元が高くて、それぞれが尊重し合えていれば、
悪がなくても自分自身を生きていられるという事もあるのでしょうか?
それと、この物語の中の悪の側の人には
心の中に葛藤があったりしましたが、殺人鬼や、いわゆるサイコな人で、
葛藤や後悔がない人の中にも善はあるのでしょうか?
そんな人にも、親がいたりするし、あるのかな?
そういう人が生まれる意味って、でもやっぱりあるんですよね?
意味ない出来事はないから、やっぱり意味はあるんですね。
と、そんな事を考えていたらまたよくわからなくなりました。
でも、地球に生まれたい魂がたくさんあるという事は、
平和すぎて退屈な生活よりも、地球でのそういったゆらぎを体験したい
という事なのだろうと思います。
物語の中に出て来た、滅びてしまった『むう』でも、
平和でとても良さそうなのに、それだけではだんだん思考しなくなり、
それぞれが進化しなくなってしまうから滅んでしまった
ということなんですよね。
地球上では、依存せずにそれぞれが自立しての平和だけ
というのは無理なのでしょうか? なんだか、また考えが
ごちゃごちゃして収集つかなくなってしまいました。
私はこの人生をなんとなく生きていると思っていたけれど、
実は、一瞬一瞬を自分で選択して生きているのかもしれないと、
この宿題をやってみて思いました。
今回の宿題、特にイティハーサについての感想は、
結局考えがよくまとまりませんでした。もう少し何度か読んで、
またいろいろ感じてみたい漫画だと思っています。
イティハーサを読みました。
他の作品も見てみたかったのですが、なかなか時間が取れず、、、。
別の機会で見てみたいと思います。
1回目は先が気になって、一体どうなるんだ?!、と
ハラハラドキドキしながら読み進めていました。
また、やっぱり主人公に感情移入して、2人とも幸せになって!
と思っていたので、最後はすんなりと納得できなかったです。
2回目は、日本昔ばなしの歌じゃないですけど、
人間ていいな、と思いました。
全ての感情を持っていて、それを感じることができる。
それは何て幸せなことなんだろうと。
作品の中では人の負の感情もたくさん出てきていて、
それこそ人を殺す快感についても語られています。
でも、それすらも否定しない、受け入れる。
また、亞神を信じる人たちも威神を信じる人たちも変わりない、
威神の戒士が悪いわけではないんだよな、と受け入れられました。
私は神戸の少年A、秋葉原の通り魔事件の犯人と同い年です。
神戸の事件があった後、その世代はキレやすいとか
色々言われることが多かったです。少なからずそれを感じて
同い年の人たちは生きてきたのかな、と思います。
秋葉原の事件が起きた時も、同級生の友達が、また同い年だ、
とメールしてきたのを覚えています。
彼らと私は何か違いがあるのか。
たまたま自分は事件を起こしていないだけなのかな、と。
プレイヤー意識だと、より、なんの違いもないのでは、と思えてきます。
漫画とかをそのような意識で見たことがなかったので、
最初は少し戸惑いました。
でも、1回目と見えてくることが違ってきて、
悲しい出来事も、必要なこと、と思えました。
この宿題も含め、講座で行ったことは
今後も忘れないように振り返って、
少しでも日々の中に落としていけるようにしたいです。
「火の鳥」を読みました。
最初にキャラクター意識で読んでいたときは
最初にキャラクター意識で読んでいたときは
強い孤独や怒りを感じて
痛々しいというか、
見ていられない気持ちになっていました。
世の中に対しての怒り、自分以外のものを信じられない、
やさぐれているような気持ち。
一度読み終えてみると結末がわかっていることも手伝って、
俯瞰して見やすくなりました。 これは自分自身の済んだ出来事を
プレイヤー目線で見ているのと同じで。
その流れの中に居るときには感情に揺さぶられて
プレイヤーの意図を掴みづらくなってしまいがちです。
プレイヤー目線になると何度だって教えようとしている、
そこに辛さとか、冷酷だという色分けはなくて、
受け入れられる時がくるまで様々な形で気づかせようとして。
大事なものであればあるほど気づけるものは大きい。
ただただ辛い目にあわせるより
大事なものから辛さを味わうほうがより響く。
そして、物事自体に囚われる必要はなくて、
そこに踊らされすぎる必要もなくて。
では、物事は無意味では?
悟り、などを意識し始めると感情的なことが無意味だと
勘違いしてしまいそうですが
それでは感情が揺さぶられることがない=気づきがない=無
で、
人間として味わえる醍醐味がなくなってしまう。
両者があって色づくのだと、改めて感じました。
プレイヤーの存在を知って、
辛い出来事もいつか認めて愛せるようになる、と
そう思えてきています。
【日々と宇宙の講座ベーシック第二期】
【日々と宇宙の講座アドバンス】
【日々と宇宙の講座ベーシック第一期生の皆さんのシェア】