最初は静かだったグループLINEも、ようやく
すっかり賑やかになってきたところで、最後!
っていうね。😂
対面ではなく、ZOOM越しですし、
最初は皆さん遠慮がちなので、
ベーシックはどうしてもそんなペースになりがちですが
アドバンスからは、さすがに慣れて、
もっと気軽に投稿できる感じになってきますのでね、
開催できるといいですね。☺️
皆さんもすでに感じていたように、
正直に本音を書いて、読みあって、
同じ学びを共有しているからこそ、
話せることや、シェアしたいこと、シェアできること、
聞きたいこと、聞けること、など、、
やっぱり、ありますからね。
この講座に限らずなのですが、多くの人が
自分と向き合うことを「こわい」「イヤだ」と避けがち、
もしくは、避けてないけどズレがち、なのは、
おそらく・・・
☆「自分を散々こき下ろして、自分と向き合ってる!と思ってました。」
☆「わたしも、自分のあら探しをして、 苦手を見つけて、
それを克服することが、 自分と向き合うことだと思っていました。」
☆「向き合ってるつもりが、自分を責めてしまってませんか?」
☆「わたしも、自分のあら探しをして、 苦手を見つけて、
それを克服することが、 自分と向き合うことだと思っていました。」
☆「向き合ってるつもりが、自分を責めてしまってませんか?」
この辺の勘違い↑が、刷り込まれているから、で。😂
向き合う=責める ではありませんからね。☺️
「向き合うことは怖くないし
自分やまわりへの愛へつながっていると実感しました。」
と書いてくれた方がいますが、本来は、そうなのです✨
「覚悟」とか「責任」って言葉にまとわりつくニュアンス
が勘違いを生んでしまう、ってとこも、ありますね。😅
なので、たくさんの情報でこんがらがった理解を
紐解きながら、見直して、日々の体験を通して落とし込む、
っていうプロセスが必要で。
これはねぇ…
どうしたって、『1対大勢』になってしまう
ブログやメルマガでは伝えられないことなのです。
そして、1回や2回では、なかなか伝えきれない…。
知識だけになっても、よくないし。
難しいからじゃないんですよ、
何かと、過去の刷り込みが邪魔する(抵抗する)だけでね。
そんなわけで、
先々の予定を決め込むのが好きではない、この私が😂
半年かけての連続講座、として、お伝えさせていただきました。
だから、皆さんの感想を通して、
それぞれの変化や受容を知れることは
とってもね、うれしいです❣️
ありがとう。☺️
何が自分を苦しくしているのか?
その正体をつかめたら、問題が問題では、なくなります。
その地点からこの世界を観ることができたら、
もっと『私』を面白がって、波乗りできるようになります。
受講生の皆さん用のシェアではありますが、
そうでない方も、
いろんなエッセンスを感じ取っていただけるんじゃないか
と思いますので、ぜひ💕🌈🌎✨
5回をかけてゆっくりジワジワといろんな角度からお話いただいたこと、
宿題などで実践してみたことで、頭でっかちな知識でなく
体験として染み込んできた感じがしました。
(振動数の高低と優劣は関係ないということは
なかなか難しかったですが😅)
六芒星のお話を聞いて、私は京都の鞍馬がとても好きなのですが、
そうなんだ!そうゆうことにもつながってるのかと面白かったです。
そして氷、水、気体や大河の一滴のお話も
今年初めに亡くなった父のことを思い出し涙が出ました。
全体からわざわざ分離して個になって、また全体に還っていく。
姿形を、変えて溶けて繋がってるよねと思えて、
今こうして個としてあることも愛おしく思いました。
そうゆう宇宙の真理?仕組みというか真相を知りたくて
私はこの講座を受講しようと思ったのだとふと思い出しました。
誰から学ぶかが大切だなと思っているので、
まゆさんから学べて良かったと思っています☺️
自分のことだと感情的になってまだ含めずにいることでも、
まゆさんによる例や、他の皆さんのお話があると
少し客観的に冷静に捉えられたりして、それによって
自分の未消化な感情も浮き彫りになったりで、連鎖していて
それが仲間と学ぶ醍醐味だなと思いました。
それぞれのフィルターを通した素直に率直な思いが
理解の深まりに繋がりました。
正直に出していただきありがとうございました😊
含めるにはまずは自分にたっぷり寄り添うことからだ
ということも身に染みてわかり、自分を慮る時間も増えました🥰
アドバンスが本丸だと伺っているので引き続き受講を続けたいです❣️
この時代このタイミングでこの仲間と出会い集まれたことも
奇跡ですよね🌸
約半年にわたりありがとうございました💕💕
最後の講座、ありがとうございました。
全てに良い悪いはなく、自分を誤魔化さず自分に正直であること、
それがどう言うことなのかが少しずつわかってきたと思います。
この講座を受けて、自分が思っていた以上に
感情に蓋をして生きてきたのかがわかってきました。
感情をしっかり感じること、
またどんな感情でもそれに良い悪いはないことがわかり、
自分の中の感情と向き合うことができるようになってきました。
今、RASのセッションを受けているので、
萬夕さんと直接お話しする機会があり、その時に
自分のことを話すのが苦痛ではなくなってきました。
苦痛と言ったら大袈裟かもしれませんが、
今までは自分の気持ちを話すのが苦手だったんです。
数年前に初めてセッションを受けた時は、
色々質問されたりしてそれに答えるのが嫌で、
どうやって答えようかと思いながら受けていました。
それが今は自分の方から話せるようになり、
それが嫌じゃなくなったのは自分にとっては大きな変化でした。
また、その話す内容が今まで人には話したことがないことだったので、
それについてスムーズに話せたことは、自分としてはスッキリして
より感情を受け入れられるようになった気がします。
この話すことが苦手なことにも、
正直気がつかないようにしていたんだと思います。
そして、人に話さない理由を人のせいにしていました。
それを自分が苦手だと認識して、苦手な理由は自分にあったとわかり、
結局全部自分なんだ、というのも納得できました。
この前、電車に乗っている時にふと、
私とあなたは違う、けど私とあなたは同じ、と思ったんです。
その言葉が浮かんだ瞬間に、そうかー、と素直に思えました。
兄が子どもの頃病気だったことは仕方のないことで、
それがあったことで知れたことや経験できたこともあるので、
それでいいと思っていました。
しかし、病気になったのは兄なので、
私がそれでよかったとは言ってはいけないと思っていたんです。
でも、先日キャラクターやプレイヤーのこととか考えていた時に、
兄だけでなく私にも親にも必要なことだから起きたことなのか、
とすんなり思えました。
だから、私が兄が病気だったことを必要だったことと思っても良いのかと。
うまく説明はできませんが、プレイヤー意識を考えたら
それをすんなりとそう思ってもいい、と思えたんです。
この講座を受けて本当によかったです。
そして、同じ講座を受けているみなさんの感想などを通じて、
更に理解を深められました。
同じ講座を受けていても、こうも感じることが違うのかと、
そこも面白かったです。
本当にありがとうございました。
5回の講座を終えてみて思うのは、
今までに、いろいろな本を読んだり、
ネットなどでスピリチュアル情報得たりしていましたが、
知識だけ増えていただけで全然わかっていなかったな、
という事でした。
内観をしていたつもりが、ただ出来事が起こった理由を
思考で考えていただけで、自分の気持ちを流してしまって
寄り添うという事が出来ていなかったのだと思いました。
5回の講習の感想や宿題が、私にとってはとても大変でした。
静かに考えられるのがどうしても夜中という事が多く、
体力的にも精神的にもきつかった部分もありました。
でも、これくらい真剣に取り組まないと、
いろいろな気づきに出会えなかったのかもと思います。
それらを書きながら、ふと頭の中に湧いてくる事が多々あり、
それによっていろいろな出来事が繋がったり、
そういう事だったのか!と納得できたりしました。
私にとっては書く事が大事な事で、そのおかげで整理されて、
理解も深まったのかもしれません。
私はとにかく忘れっぽく、聞いた事もすぐに忘れてしまうので、
これからも時間がある時に聞き直して、
宿題として出ていた事を習慣化できたら良いと思います。
講座の内容がどこまで理解できているのか自分でもよくわかりませんが、
今後も少しづつ少しづつ、思考により過ぎてしまわないように、
体感しながら、深めていけたら良いなと思います。
私には、スピリチュアルの話ができる友人が1人だけいます。
お互い同居していたり、環境が似ている事もあり、
いろいろ深い事も話せる友人です。
たまに、連絡を取り合ったり、会って話したりしています。
その彼女につい数日前に久々に会ったのですが、
聖書の勉強というものにどっぷりハマっていました。
いわゆる、プロテスタントとかカトリックとかのキリスト教ではなく、
聖書を読み解く勉強で、世の中で起こっている出来事は
聖書の予言に沿っているそうです。その見解によると神道は、
聖書が元になっているとも言っていました。
そして、彼女は洗礼を受けたそうです。
聖書がどんな内容なのか詳しいことはよくわかりませんが、
その話を聞いている最中なんとなく寂しくなりました。
たぶん、宗教?の様なものにハマってしまって残念だなぁ
という気持ちだったと思います。でも、お金を取られるわけでもない
と言っていたので尊重しようと思います。
ちょうどまゆさんがお話しされていた事と繋がっておーと思いました。
シフト期だとそういったことも起こりやすいのかもしれませんが、
ただ自分に寄り添ってあげる事をしたら良いのになぁ
と思ってしまいました。
でも、私も知りたい知りたいばかりの時もあったので、
彼女には彼女のやり方もあるし、今後も友人として
いろいろな話ができたら良いなとおもいます。
職場にたまに来る苦手なお客様がいます。
怒りやすく声を荒げたり、
自分の正論を威圧的に語り出すタイプの人です。
ここ数ヶ月は落ち着いていて、仲間内でも、最近あの人機嫌良いね
なんて話してたのですが、つい先日また機嫌が悪くなる出来事に
遭遇してしまいました。こちらにも非があるのですが、
またグダグダと正論をぶちまけて、自分の都合を通そうと
怒り散らしていました。私はそれに対して萎縮してしまい、
ミスを犯してしまい、しばらく気持ちを引きずってしまいました。
その人の事は、宿題の中にも取り入れていたので、
含める事ができていればその人がどんな態度を取ろうとも気にならない
と思うのですが、ダメでした。
やはり、なかなか簡単にはいかないものですね。
他人には優しくするべき?感情を抑えるべき?人の話を聞くべき?など、
その出来事の枠がなんなのか、まだわかりませんが、
今後もその枠を探して、含めていけたらなと思います。
まゆさんの「人を許すのは自分を許す事」という言葉が
とても胸に響きました。
確かに、他人を見てそれを自分の中に探して、自分を許して、
他人も許してができたら良いですよね。
それが今の自分にはわからない事だったとしても、
これからももっともっと自分を許して、
いい子いい子してあげたいなと思います。
この講座はzoomでしたので、受講生の皆さんとは、
なかなか交流できませんでしたが、講座や宿題の感想を読んでいると、
なんとなくその方像がぼんやり見えてきました。
皆さんとにかく真面目に自分と向き合っていて、
とても胸を打たれました。
ただまゆさんのブログを読んでいる時とは違い、
気持ちがひしひしと伝わってきて、痛いくらいでした。
これで終わりなのは残念ですが、
とても素敵な方々と時間を共有できて、幸せでした。
ありがとうございました。
それと、まゆさん想像以上に本当にすごい方でした。
菩薩様そのものの様な。
何度も何度も同じ様な事を質問されても落ち着いて優しく説明し、
根気強く教えてくれて、びっくりするほど丁寧に、
一人一人に寄り添ってくださっていたと思います。
私なら、完全にイライラしてると思います😅
初めの頃は、こんな事書いたり、言ったりしたらダメかな?とか
ものすごく考えてしまってましたが、最後の方は、
何をやっても受け止めてくれるだろうという様な安心感を感じ、
私自身も落ち着いてきたと思います。
本当にありがとうございました。
あと、インドに行ったら世界観変わるのかな?なんて思いますが、
行くにはかなりの思い切りが必要そうだなぁと思いました。
5ヶ月間本当にありがとうございました。
最後の講座は、ベーシックで学んだ内容がすべて紐付けされて
結びついたような、一つの網の袋のようでした。
わざわざ分離のない状態で生まれてきて、
たくさんの分離を経験して、また統合に向かっていく。
いろいろな経験をして、晩年悟りの境地にいらっしゃる方々を見て、
その意味は自分なりに理解しているつもりでしたが、まゆさんの
「情報量は多いのにシンプルになる」の説明がとてもしっくりきました。
情報量がない状態で分離のない状態と、
情報量が多い状態で統合している状態って、
同じ統合の状態でもそれぞれの醍醐味が違うなと。
これもいい悪いではないので、
せっかくなのでどちらも体験したいところです。
そして、講座の最初の方で出てきた、巻き込み力と横軸のお話。
教祖的な人を批判する気持ちが大きくなりすぎて距離を置くのと、
含んだ上で自分には必要ないからと距離を置くのは異なるというお話。
あれは少し前に自分でも同じことを思っていました。
安倍首相の銃撃事件の際、
山上さんからの手紙を受け取ったジャーナリストの米本さんが、
なぜ彼は米本さんに手紙を出したと思うか?とインタビューで聞かれ、
おおまかに次のような回答をされていました。
(長くなるので少し削ってあります。)
「僕が“反カルトのカルト性”を問題にしていることを
おそらく彼は知っているから。僕は以前から反統一教会の人たちに
『お前らも(統一教会と)同じだよ』と指摘してきました。
彼らは『カルトは悪いからやっつけよう』と断罪するだけ。
信者の気持ちへの配慮は一切ない。その問題点を山上君はわかっている。
メディアもすべてを『白か黒か』にする。カルト的です。
今は統一教会バッシング一色でしょう。
『白か黒か』で分けられるものは世の中にはありません。
黒の中にも白があるし、白の中にも黒があるんです」
私も教団に乗り込んで横山やすしバリにキレ散らかした過去も
ありますし("も"ってことは他にも様々な爪跡を残しているのですが)、
反カルトのカルト性って、そもそもそれ自分が代表してやっていたので
身に沁みてよくわかっていますし、
今思えば反省ポイントもたくさんあります。
分離に対して分離で返すと、分離の泥沼になることもよくわかっています。
私はカルトの元カレとはそもそも遠距離でしたし、
出会った時はお互いいい年齢で、
お互い自立してそれなりに稼ぎがあったので、
私には含んだ上で離れるという選択肢があったと思います。
(それだけ距離もあって依存関係もないのに、
私は頭がおかしくなりそうでしたが)
でも、生まれた時からこの環境、
一つ屋根の下で至近距離に常にずっといて、
子どもだから経済的に親を頼らざるを得ない
(物理的に離れるに離れられない)状況だったら、
果たしてどんなやりようがあったのだろうと、
山上さんを思うとものすごく胸が痛いです。
含むって意外に難しくて、だから生涯かけて
統合の方向に向かっていけたらいいのかなと、
いきなり大テーマに無理に挑んだり、すぐに含むプロセスを
無理矢理実践してできる気になったりすることなく、
自分としてはできるところからちょこちょこ含むトレーニングを
していきたいと思いました。
そしてより多くの人が少しでも生きやすくなったら、
本当に、これ以上嬉しいことはありません。
数年前に、私もまゆさんから「インドに連れていきたい!」
と言われた一人です。
物事を思い通りにしたいと私が言ったからだと記憶しています。
当時のそんな私が行ったものなら、自分ルールを振りかざして
インド人と闘いまくり、もう二度と行きたくない!となるか、
固定概念をぶっ壊されて新境地を開拓してどハマりするか…
そんなことを考えながらまゆさんの話を聴いていましたが、
能動的諦めの境地という言葉に若干モヤりました。
やっぱり自分が変わるしかないよねぇ…
それがすんなりできない時は、自分が正しいと思い込んでいる
→だから自分が受け止め方を変えることに納得できていない
→なんか負けたようで悔しい…
最後のあたりで嫌いな人を許すという話がありましたが、
これと同じように感じました。
ひいては自分を許すと同じことというのは頭では理解しています。
でも、でも割りきれない気持ちが歩みを止めてしまうのです。
最近思うことは、職場で新人さんに厳しい目を向ける自分、
実はその目は自分自身に向けられているということ。
相手がやることを許せない
=同じことを自分がやるなんて言語道断、絶対ない
という立場で物を言っている。
これってよく考えればなんて傲慢な態度だろうと。
私、厳しすぎるなぁ、一人で力が入りすぎてるなぁ…
これじゃあ疲れてしまうなと思いました。
一人相撲をとっている感じ。
今回で講座は終わりになりますが、
含んでいくことはこれからも続けていきます。
それが自分の人生の大切な一部だと感じているからです。
これまで自分を嫌って否定して分離しまくった分、
これからはひとつひとつ自分で拾い集めて統合していく、
そういう時期に入ったんだなと去年の誕生日に感じました。
それは今までとは違う生き方をしていくようで、
やっとこの時が来たと歳を重ねたことを嬉しく思ったくらいなのに、
その実まだまだ過去の生き方を繰り返している次第です。
そんな歩みの鈍い自分が嫌になるときがありますが、
ここにきて気付くだけでいいということが
じわじわと浸透している感じがしています。
以前は『気付いたなら何かしなきゃ駄目でしょう』くらいに
思っていました。
で、何をやったらいいか具体的に分かっていないから、
ジタバタもがくといったような空回り状態。
ですが、本当に気付いていれば次に選択する行動や、
その前段階の思考は以前と同じものであるわけがないので、
結果それだけでいいということなのかなと思いました。
講座では前回の復習も含まれていたりするので、
より理解が深まるという利点と、
後からふとした瞬間に理解が追いつくような感じがありました。
そして自分のことが課題を通してよりよく分かるということも…。
取りかかりが遅くてのんびりしているように見えるけど、
実はずっと気にしている。
普段仕事でキチキチしているから、
お休みの日はなんにもしたくないんだな、とか。
時間の浪費とかそこでも自分攻めをしていましたが、
そうすることで自分を緩めていたのかもしれないと思いました。
自分によしよしするとか、自分と仲直りするという言葉もありましたが、
今の自分に本当に必要だなと気付かせてもらいました。
ありがとうございます。
5回目の講座ありがとうございました。
これまで講座を受けていて気づいたことを、改めて書き出してみます。
この一週間色々感じていたので、感想がとびとびです。
自由に過ごしているね、と人から言われると嬉しくて、
自分もそう生きている気でいたのに
講座を受けているうちに、「私は自由な人間ですよ」と
他者に思わせるように仕向けていたということに気づきました。
あの人のほうが自由に過ごしているのに、
私は色んなものでがんじがらめになっている。
でもそう見せないために、自由を演出して、
こんなに自由な世界があるんですよ、と演説している。
なんとなくどこかで感じてはいたけど、やっと自覚しました。
なぜ自由な世界を見せたいのか?
日常で自由を感じる瞬間なんてそうないのに、、
あ、ルールを感じたいからか。なんてぼんやり考えていたのです。
なるほど、ルールも感じたかったのか〜!と思ったときに
「全部同じ!」と感じました。
そもそも、自由もルールも全部同じ。
そう感じたのが先か後か忘れてしまったのですが、
何に対しても自由じゃない!って、
“自由じゃないもの探し”をしていたことにも気づいたんですよね。
フォーカスするところが、自由じゃない方になっていた。
そりゃ自由を感じられないわけですよね。
ルールの方ばかり見ているんですから。
でもそれも自由を感じたいからで。
それにしても“自由”に対して固執しすぎですよね。
いや、そもそも一緒なんだって、って。
人との衝突をさけていたのは、
相手に何かを言われることが嫌なのでも
トラブルが嫌なのでもなくて
最終的に自分が自分を責めている姿を見たくないから。
強がったり、孤独を感じたり理解を得られない姿を隠して
むなしい自分を感じるのが嫌だから。
自らつくり出した掟は、私がかなしみや苦しさを感じないように
必死にガードするものでした。
なぜ掟が出来たのかがわかると、それ自体は何の問題でもなくて、
ただ気づいて欲しい自分がいるだけでした。
見つけてもらえてすごく嬉しそう。うん、嬉しいです。
優劣のない世界
在るものがただ美しくてすべての存在を認めてあげられたら
みんながピースにすごせるけど、そうではないからこそ
人生を彩って楽しむことが出来ているのだなぁと。
優劣やジャッジのない世界を望むけど、そうじゃないから
アトラクションを楽しめているんですよね。
講座を受けている期間、自分とじっくり向き合えたのは
とても有意義な時間でした。
このように過ごすことは私の中で最も大事にしたいと思えることで、
何よりも自分が喜んでいると感じることでした。
向き合うことは怖くないし
自分やまわりへの愛へつながっていると実感しました。
【日々と宇宙の講座ベーシック第二期】
【日々と宇宙の講座アドバンス】
【日々と宇宙の講座ベーシック第一期生の皆さんのシェア】