11/20に2回目を開催しました、5回連続の
そこでお伝えした<投影の原理>の理解を深めていただくために、
課題を2つほど、やっていただきました🌟
その中から、課題2
「嫌いな人、苦手な人、感情を揺さぶられる人について、
自分がその人をどういう人だと思いたがっているのか?
どういう土俵(枠)の中で どういう役割をさせているのか?」
を考えてみての気づきを、
ここにもシェアさせていただきますね。☺️
どうしても私たちは『被害者』役にハマりがちで、
誰かを『加害者』役に仕立てて、葛藤することが多いですよね。
私たちが『現実』と信じてやまない、
この『幻想』世界は、実に『リアル』に迫ってきますので、
どう見ても「相手が悪い」と見えることも、多々起きます。
だから、物事の表面、表層だけを見るなら、
被害者意識になってしまうのも仕方がない。。
集合意識にもがっつり入ってますしねぇ。。
(被害者意識が悪い、という話ではありませんよ〜。☺️)
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」なんかを見てても、
生きるか死ぬか、やらなければやられる、の攻防戦に、
「こんなんじゃ、被害者意識しか生まれようがないわ…😔」
って思っちゃいますよ。
でも『被害者』には、人々の同情が集まる、という
メリットもあったりするわけで。特に日本はね。
被害者=いい人
加害者=悪い人
っていう、単純な図式も刷り込まれてますもんね。
誰だって悪者にはなりたくないし、
いい人でいたいもの。
現状にしがみつくことの『隠れたメリット』を発見できると
(自分では、なかなか難しかったりもしますが。)
手放せることもあるかもしれません。☺️
〜RASの被害者(加害者)意識の解放のこと」もご参考まで。
でもって、
そもそも大前提としての、
被害者加害者というドラマの『土俵』に気づくことができると、
そこに上がらないことも選択できるかもよ・・・?
っていうね、ワークでした🌟
同じ枠を持ってる者同士じゃないと、当然、
同じ土俵に上がりようがないので、、、
その枠が外れれば、土俵からは下りれます。
とはいえ、枠を外したくても、
痛みがあると、ただただ自動反応してしまい、
つい土俵に上がってしまうので、
まずは痛みに寄り添うことをオススメするわけですが。
「ないもの」としてスルーしてきた感情を
「ないと思ってたけど、あったわぁ…」と認めて、
認識してあげるだけでも、自然と消化へと進みます。
全く無意識だった枠(土俵)を認識してあげるだけでも、
認識していなかった時とは、すでに違うんです。
気づきのパワーって、すごいんですよ❣️
自我との同一化もゆるみますしね。☺️
だから、自分をごまかそうとはしない方がいい。
受講生の皆さんも、
自分の本音に気づいてあげようとしている姿勢、
素晴らしいです。✨
そのためにも、自分を責めないこと❣️
「責められる!」って思うと、私たちって無意識に
本音を隠そうとしてしまいますからね。
自分相手にでも。
自分vs自分の攻防戦、
まさに自作自演。😂
受講生同士が読み合い、
そこからさらに気づいたり、より深められるように、
ということをメインの目的としてますので、
受講生以外の方には「?」な部分もあるかもしれません。
でも、読んでいただくと、
いろいろ、大切なヒントも見つかるんじゃないかなぁ、と
思っております。☺️
自分は、可哀想な被害者でいたい事が多かったので、
わがままな人や自我の強いキャラクターが周りにいて、
自分の気持ちが言えない、嫌と言えない、振り回されても我慢する
という自分のキャラクターが多かった気がします。
最近思ったのが、私には1人の時間も必要だし、
話し下手で自分の事を人にあまり話さないけれど、
本当は話したいのかも?という事です。だから、
連日の様に事細かに自分の話をLINEしてくるママ友達に
イライラするのかな?
本当は、自分も話したいからなのかな?と。
ママ友達が悪者になって自分が被害者になってますね。
もっと自分からOpenになれという事かもしれません。
この講座の中でも、私、結構自分語りしてるよな〜と
最近思っていたところだったので、
本当は話したいのかな?と考えました。
もっと、自分のしたい事を、気持ちを優先して
態度に出してみても良いのかもしれない。
昔よりは少しずつやれている気がします。
自分のキャラクターを変えて、
わがままな人にわがままをさせなければ良いんだ。
そうすればお互い幸せだなぁと思いました。
読んでみて話はわかるのですが、なんだか靄がかかったような感じで
はっきりと自分の中に入ってこない感じがしています。
Aを見ているようでいて、実はA'を見ているのだ、
というお話はわかるのですが。
実体験として自分の事としてわかるようになるのが
まだ先なのかもしれません。
まゆさんが言っていた、silentというドラマ、
私もまだ途中までですがみています。
最近娘も見始めたのですが、
それぞれ感情移入する人や、場面や、出来事が違うので、
話していてもそんな場面あったっけ?みたいな感じで、
面白いな〜と思いました。
同じものを見ているのにそれぞれのフィルター越しに見ているんだなぁ
と、改めて感じました。
私は嫌いな人や苦手な人のことを、
誰が見ても嫌な人間だと思いたいようです。
その人のことを嫌いなのは、その人に問題があるからだ、と、
自分を正当化したいように感じます。
自分は正しい、と思いたくて、そう言う人を作ってるのかもしれません。
あと、アドバンスが始まってから、
会社の苦手な人のことを考えていた時に、
想像の中でその人をめちゃくちゃにしたことがありました。
突然そういったイメージが浮かんできてびっくりしたのですが、
そのままにしていたら、そのうち最初の相手は消え、
たくさんの知らない人たちが出てきて
みんなをめちゃくちゃにしていました。
そして、私も違う人間になっていました。
男性になっていて、その男性が周りをめちゃくちゃにしているのを
私は外から見ていました。
これは私のただの妄想なのかどうかはわかりませんが、
自分の中にある激しい感情に驚きました。
その男性は周りを全てを憎んでいました。
その人の気持ちがわかり、これは寄り添わなくてはいけない、
と思い、その人を抱きしめました。
そうすると少しずつ気持ちも落ち着いてきました。
私の中にある感情は私のものだと思っていました。
私が経験した過去が関係しているものだと。
でも、私だけのものではなく、
誰かが経験したものに由来するものもあるのかな、と
今回の経験で少し納得できました。
自分の中の感情にショックを受けたり落ち込むこともありましたが、
自分ではなく誰かの感情なのかもしれない、と思えると、
少し気が楽になります。
それから、会社の人への苦手意識が少なくなった気がします。
心なしか相手の態度も少し変わってきたような気がします。
相手のことは変えられないけど、
自分が変われば相手のことも変化したように見える、
ってことなのでしょうか。
自分が変われば、苦手だったり嫌いな人が気にならなくなるのか
と思っていましたが、そうではなさそうで、
自分が自分の世界を作っている、
というのを少し理解できたような気がします。
嫌い、苦手など感情が揺さぶられる人は、仕事をうまくサボる人です。
私の中で仕事は一生懸命やらなければならないというルールが
出来上がっていると分かっていますが、
手を抜いて周囲にはいい顔をしている人を見ると嫌な気持ちになります。
何度かその人に対してサボってる疑惑がわくと、
そういう言動ばかりが目についてしまい、
さらに自分の確信を深めるという結果に…。
その人に対して仕事をサボるずるい人だというレッテルを貼って、
そういう人だという証拠集めをしているみたいです。
仕事をしないことが悪だという枠の中で、
仕事をサボる悪役を登場させて私は何がしたいんだろうと考えると、
私の立場は仕事を頑張るいい人みたいな感じで、
実は被害者意識でいっぱいという姿が浮かび上がってきました。
あの人のせいで私がこんなに忙しい思いをしている!
面倒なことはこっちに押し付けてずるい!私は悪くないのに…!と。
毎回、自分がやる(人に頼まない)という選択をし続けている結果が
そうなっているだけなのに、
つい他人のせいでこうなっていると思い込んでしまいます。
自分の思うようにやりたいから他人に任せられないという一面もあり、
エゴが強いのか、含めていないからなのか、
仕事をする上でのポリシー?なのか、この辺はよく分かりません。
分からない、が発動しまくりですが、
考えれば考えるほど どつぼにハマりそうなので、
分かりたがっているんだな~で止めておきました。
嫌いな人は感情を揺さぶりイライラさせてくる人。
なんでこうしないの?わかってくれないの?
気が利かない。わかり合えない。
もう完全にそういう人、わかってくれない人、
私が望む対応をしてくれない人と決めつけていて、
結構強固にもう決めつけてしまっているから、
なかなかその見立てを見直す機会もなく、
その見方から出るチャンスをあげないくらい。
期待してたこともあるけど、
もう諦めたのか
頭ごなしに決めつけてしまっていて、その上悪人扱いして、
自分を高みに上げて相手の存在をとことん下げることで
安心しようとしてる。
自分の正当性を証明しようとしてしまう。
受け入れてくれない認めてくれないだろうから、先回りして
私の方がもっと嫌いって思ってるから大丈夫って思ってる。
敵というか、相容れない別世界の人と、自分とは分離させている。
とりあえずはきっかけはなんであれ、
今現在こちらが扉を閉ざしてしっかり分離している。
相手を拒絶することで、
モヤモヤや
その奥に潜む痛みを深掘りすることは避けられてるけど、
そこをなかったことにするような気になってしまうかも。
根本的なことを先送りしてる気分。
もともとは相手を拒絶、断絶することで、
自分を守ろうとしてる。
自分は間違ってないよね?大丈夫だよね?
自己否定からの回避の手段だったのかなと思う。
だけど、そうゆう細かな感情を見ないように
傷つかないように、そうゆうシャットダウンするという手段を
とったのかなと思った。
そこには傷ついた自分というのが確実にいて
それを投影してるだけだというのは感じる。
まずはよしよしして自分の話を聞いてあげようと思った。
嫌いな人や感情を揺さぶってくるような人がすぐにイメージ出来ずに、
これまでイライラした場面などを思い返してみたのですが
その人自体がどうこうではなくて、こうされたら嫌だな、
という行動そのものに行き着きました。
こうされたら嫌だなと思っていたことは、普段自分が
“しないようにしなきゃ”と強く掟として握っていたものでした。
そして普段頭では「良い悪いなんて存在しない」と意識しようと
自分に暗示をかけていたというか
そう思い込もうとしていた部分があって
本当はものすごい勢いで優劣、白黒をつけたがっている、
ということに気づきました。
もう何年も前に、身内の見るもの全てにジャッジをしまくる姿を見て
そこから自分への暗示が始まったような気がします。
私はこの中で長く過ごしてきたから
ジャッジが当たり前になっていたのだな、と思うと同時に
そのジャッジの癖を隠し、身内の事は強くジャッジしていました。
本当の意味での理解ではなかったと思います。
本当は何でも良くて
正しいも、間違っているもない。
頭でわかろうとしてそう言い聞かせるよりも、
多角的に物事をみることですこし理解が進んだかなと思います。
優劣をつけたがっている自分がいて
自分の立ち位置を明確にしたい自分がいる。
何なら優位に立っているとおもいたい
でも本当は優位に立っていないことを自覚しているから、
それを手放さないから
その人(他者)にその役割をしてもらっていたのかなと思います。
コンプレックスと認識しているものを手放したいと思いがちですが、
それを痛みとしてではない形でいつか認めてあげたいなと思いました。