2つ目の課題では、
その原因を、他に置いた場合と、自分に置いた場合と
両方から眺めてみていただきました。
<原因と結果の原理>の理解を深めていただくための内容。
受講生の、やってみての気づき、
ここにもシェアさせていただきますね。☺️
受講生同士が読み合い、
そこからさらに気づいたり、より深められるように、
ということがメインの目的ですが、
受講生じゃなくても、
講座のエッセンスに触れることはできますし、
気づきのヒントいっぱい🌟のはずですから、
実のところ、
ここで誰でも読めるようにしてあるシェアは
大盤振る舞い❣️だったりします。😆
でも、キワのお話というのは、どうしても
ちょっとの誤解で大きくズレたりもするので、
そこは受講生に対してしかフォローできないってことだけは
ご了承のほど〜。。
さて。
原因を他に置いている時というのは、
「自分は1ミリも悪くないという立場で
自分を守っていたのかもしれません。 」
と書いてくれてる方もいますが、無意識に
自分を守ろうとしてやっていること、多いです。☺️
そうすることしか知らないうちは、
それが精一杯なわけで、
「今思い返しても、その時はその時で精一杯だったし、
どうして良いのかもわからなかった。」
と書いてくれてる方もいますが、そうなんです。
だから、がんばってた自分に「よくがんばったね〜」って
よしよし、してあげたらいい💓
でも、それ以外の方法があることも知った今は、
違うやり方を試してみてもいいんじゃない?っていうね。☺️
『守る』ってこと自体が
自分がいて、他者がいる、という『分離』前提の行動ですので、
振動数としてはどうしても低くなるし、
=ドラマチックになる =苦しくなりやすい のです。
『守る』は、ほとんどの場合、恐れが動機ですし。
動機=結果 ですから、
守ろうとすればするほど、どんどん恐れを強めてしまい、
さらに分離していく…
=ますます苦しくなる っていうループにハマるわけですね。😅
「自分の根っこにある感情をごまかすために
色々と広がっていってしまった。」
と書いてくれてる方もいますが、そう。
苦しいと、人は、今度はどんどん(無意識に)
その苦しさから目を背けるために、自分をごまかし始めるんです。
そうして麻痺に入っていくので、
大抵は、自分が自分をごまかしていることにも、
なかなか気づけません。
でも、ありがたいことに私たちって、
本音を無視していると必ず苦しくなるようにできてますので、
「なぜ苦しいんだろう?」と意識し始めることで、
ようやく気づける可能性が出てくる… んですね。☺️
その時に、原因を他に置いたままだと、
<振動数の原理>も使えていないし、
<投影の原理>も、、、ってことになっていくわけで、
抜け出すのはなかなか難しいのです。。
まー、究極、
誰のせいでもない、って話なんですけどね。😂
そうなるようになっていたからそうなった。だけで。
「私」すらいない、プログラマーの次元からすれば。ね。
「現象として起きていることは同じ」
「少し笑ってしまいました。」
「どっちでもいいんだな」
・・・ですよね。😂
ってことなんですよ。
受講生の皆さま、いい感じです。☺️
立春スタートで、瞑想も、引き続きお楽しみください🌟
自分の根っこにある感情をごまかすために
色々と広がっていってしまった。
次から次へと。
向き合うことから逃げて、逃げて、結果そうなってしまったこと。
単純に自分に原因がある出来事もあるし
自分のせいだと信じすぎてしまっている場合もあるのかも
と思いました。
わかったのは
私のせいではないと思いたい、という自分と
結果はどちらも同じ、ということ。
最近、イラっとした時に
「やっぱりな」と思っていることが多いと感じていました。
自分の望まないことを想像して、そこに設定をして
「やっぱりな」と思うような現象をつくりだしている。
「こうなりたくない」と
恐れの思考を膨らませた結果、起きた現象 と
仮に何も考えずに同じ現象が起きた場合 とでは
私達の身体に起こるストレスのようなものの重さが違う。
恐れの思考は段々と重たくなってきて
さらにその思考に気づかせる為に、
「やっぱりな」と思うようなできごとにあう
でも現象として起きていることは同じで
恐れのままに行動を起こした場合、
余計な思考で更に重たく感じていますよ、と
少し前にそんなことを考えていました。
宿題をやってみて
自分の思考を紐解いてみると
「恐れていても恐れていなくても結果は同じなのだから
そんなにあれこれ考えすぎなくても良いんじゃない?」
「逃げても逃げなくても結果はどちらも同じ」と
、
その考えを裏付けしたような内容になりました。
これは今まで何度も直面してきた内容だけど
やっぱり今本当に欲しい言葉で
腹の底から納得したい言葉なのだなと思いました。
今回、昔の出来事を思い返して、忘れていたようなことも
いろいろ思い出して、その頃の自分に寄り添うことができました。
学生の頃は、人を誘うことがなんだか出来なくて、
多分断られることが怖かったんだろうと思います。
今はLINEなどがあるので、誘うことは簡単になりましたが、
口頭では難しいものがありました。
でも、この講座を受けていて、
断られたって良いじゃないと思えています。
自分の思った事を素直に言葉にしていきたいと思うようになりました。
昔の自分は、とにかく受け身で自分の気持ちを無視して
相手に合わせることばかりしていたんだなぁと改めて思わされました。
そして、被害者になってかわいそうな自分が出来上がっていました。
でも、今思い返しても、その時はその時で精一杯だったし、
どうして良いのかもわからなかった。
もし、あの頃の自分に、今の私が声をかけたとしても、
うまくはできなかったと思います。
でもこれからは、結局は、自分がどうしたいか、
自分がどうするかなのかなと思いました。
年齢を重ねて気になることが減ってきていると思うのは、
年齢のせいだと思っていましたが、年齢を重ねるという事は、
自然と経験が増えているわけで、様々な経験を重ねていくうちに
いつのまにか含めていた、ということなのかもしれないと思いました。
これからは、それを意識的にやっていけるかなという気がしています。
まゆさんが言う、視座という言葉が思い浮かびました。
私の気持ちを乗せたストーリーと、
相手の気持ちを想像したストーリー。
同じ出来事でも視る位置が違うと、
違う物になっているだろうと想像できました。
実際起こっている事実だけに着目するのを忘れないでいられれば、
含めていく事がもっとできるのではないかと思いました。
あとは、自分から伝えることなんだなと。
それをもっとやってみても良いなと思いました。
伝わらないかもしれないけど、そもそも伝えなければ伝わらないなと。
それで思うようにならなくても、それはそれで良いと思います。
課題2をやってみて、
自分のせいにしても、自分以外のせいにしても、
何か自分勝手なフィルターを通して見ているんだな、と思いました。
その起きた出来事は、自分のフィルターを通せば自分のせいだし、
自分以外のフィルターを通せば、それのせいだし、と思うと、
少し笑ってしまいました。
だんだん、誰かのせいにするのなんて意味ないのでは?、
と思えてきました。
何でも自分のせいにしすぎているなぁ、と思うことがあるので、
その時はこの課題で感じた感覚を思い出したいです。
自分以外のせいにすると →
悪いことばかり目につき、いくらでも深掘りできる。
そのためいつまでも出来事から離れられず執着してしまう。
重たい。被害者意識が強くなる。
自分のせいにすると
→
自分が選んだのだから、自分の責任なんだからまあ仕方がないか
と軽く淡々と受け止められる。そして次行こうと、
その出来事についてはあまり気にしなくなる。
軽い。忘れるくらいどうでもよくなる。
やってみて、「重さと軽さ」と「執着と記憶からなくなる」
というように対比が極端で面白かったです。
どっちも選べるんだな。どっちでもいいんだなと思いました。
2つ目の課題は難しく感じて、なかなか進みませんでした。
昔は今よりも人生経験が少ないから物事を多角的に見ることができなくて、
ネガティブな出来事があれば自尊心が低いこともあり、
すべて自分のせいだと自分責めをすることが多かったです。
そんな自分を常に変えないといけない、
直さないといけないと考えていました。
今思えば個性を否定して別のものになろうとするのではなく、
個性を活かして適応していく方法を探っていけばよかったなと思います。
すべてを自分のせいと考えていた時は、
よく考えるとその真逆もやっていました。
自分責めに耐えきれなくなって、周囲のせいにしだすという…。
特に自分ではどうしようもない生まれ持った容姿や才能、環境や家族など。
原因や結果を自分以外に置くことで、自分のことを棚に上げて
自分は1ミリも悪くないという立場で自分を守っていたのかもしれません。
出来事の原因と結果を自分、または自分以外に置く場合、
そのどちらかに一方的に責任を負わせるのは、
物事の白黒をつけることと同じですね。
私と、私以外という両方から見てみると、
私には私の正義があるけれど、
相手にも相手の正義があることが分かりました。