12/11に3回目を開催しました、5回連続の
そこでお伝えした
<振動数の原理><極性の原理><リズムの原理>
だけでなく、今までお伝えしてきたことを実践して
理解を深めていただくために、
課題を2つほど、やっていただきました🌟
その中から、課題2
ほぼ毎日のように会う人(家族でも、会社の人でもいい)
を誰か1人決めて、その人を最低5日、
『観察する』という意識で眺めてみての気づきを、
ここにもシェアさせていただきますね。☺️
身近な人ほど、どうしても
「知ってる『つもり』」になりやすいもの。
自分のフィルター越しに見て、
ついつい決めつけてしまってるにもかかわらず、
それがあまりにも「当たり前」になりすぎていて、
気づけないことも多いですからね。😅
改めてちゃんと『観察』してみると、
見ているようで、1側面からしか見れていなかったり、
「こういう人」と決めつけて、
見ようとしていなかった部分を発見できたり、
相手のフィルターだけでなく、自分のフィルターにも気づけたり…
いろいろ、面白いですよ❣️
他者をちゃんと『観る』ことって、結局、
自分をちゃんと知ることに繋がりますから。
ただこの『観察する』も、ベーシックからずっと
お伝えしてきたことを総動員してのそれ、なので、
受講生でない方は、やってみようとしても、
どうしたらいいのか、わからないかも?しれません。
ここではあくまでも、受講生同士が読み合い、
そこからさらに気づいたり、より深められるように、
ということをメインの目的としてシェアしてますので、
何卒ご了承くださいね。
でも、それでも読んでいただくと、
「わかるわ〜!」っていう、ひたすらな共感とかもね、
「私だけじゃないんだ」って思えるだけで、なんか安心する
っていう声もいただきますし、
「確かに、こういう見方もあるなぁ。」とか
「こういう風に受け止めてみるといいのかも。」とか
大切なヒントがいっぱい見つかるのではないかな、
と思いますよ。☺️
じっくり観察できるのは家族だったので
観察対象は主人にしました。
ちょうど、主人の忘年会があり、
部下の子と軽く言い合いになったという話を聞きました。主人には、
『他人には気を使って話をするべき』という掟があるようです。
自分が気を使って相手に合わせた会話をしているんだから、
相手も自分に合わせた会話を振ってほしい、それが普通だ
と思っている様でした。
それは自分の掟なんだと、自分の中の事なんだと、
やんわりと伝えたかったのですが、なかなか言い方が難しく、
相手の人は自分の事で精一杯の人なんだ
くらいの事しか言えませんでした。
その他にもいろいろな『べき』を持っていて。
以前からそれらを聞いていましたが、それは私と違うであろう『べき』
なので、私には引っかかる事はない『べき』でした。
でも、聞いてみればそう思う気持ちもわかるけれど、私はそう思わない。
人によっていろいろがあるんだなぁと改めて思いました。
家の中での事を見ていると、
主人も娘も結構プンプン怒っている時があるな、
ということに気づきました。周りの人や事柄に対してのべきが多く、
プンプンしている事がよくあります。
そういう時に何かきっかけになる様な事を言ってあげたいけれど、
自分が悪いと受け取られてしまいそうで、
なんと言って良いのかわかりませんでした。
でも、いろいろな人がいて、いろいろな価値観があるんだ
という様な事はこの先も話していきたいと思います。
主人を注目して見ていると、イライラしてしまう時がありました。
年末で私も忙しかったこともありますが、暇さえあればゴロゴロして、
それはいつもの事ですが呆れてしまう時がありました。
そのイライラをぶつけてしまい、まずいまずいと思い、
その後は少し優しく対応しました。 以前よりは家事をやってくれるし、
家の中でゴロゴロしていても最近はあまり気にならなかったのですが、
見ないようにしていただけなのかな?
私もゴロゴロする時もあるし、見なければそんなに気にならないなら、
それはそれで良いのかとも思いました。
イライラするのは自分が忙しかったり疲れていたり、
余裕がない時にそう思う気がしました。
大学生の長男が帰省して、年末年始を久しぶりに家族で過ごしました。
なんだかんだとバタバタしていてイライラする事もあったのですが、
家族で過ごすふとした時間、初詣に行くとか、
そういった普通の事が幸せなのかもしれないと改めて感じました。
主人はよく話をする人なのですが、子供達が主人とよく話し、
家族での会話があるのは主人のお陰だろうと思います。
そういえば、昔私の心も開いてくれたよな、と思い出しました。
主人は主人なりに一生懸命やっているのだろうと思えてきました。
家族といえども、それぞれ違う考えもあるし、
一緒にいて嫌な時もたくさんあったし、
長い間にいろいろな事がありましたが、
そうやって家族のドラマを経験しながら
これからも生きていければよいなと。
私がヒプノをやって感じた、
『家族を体験したい』ができているかもと思いました。
主人を観察してみて、改めてイライラしたり、
普段忘れている感謝を感じたり、こうやってゆらめきながら
家族をやっていけたらそれで幸せだと思いました。
今まで、どうしても頭でいろいろ考えてしまって、ある事無い事を、
私の中であることばかりにしてしまってましたが、
それを知る事ができたので少し変われるのではないかと思います。
観察対象:夫
観察してみると、勝手にこうくるだろうという展開を
先にイメージして決めつけていることが多いなと思った。
きっとこう行動するだろう、こう言ったらこう返ってくるだろう
ということを一緒に過ごした経験から一方的に判断していた。
でも観察していると、そうゆうわけでもなかった。
相手は相手で一生懸命生きてるんだななんて思えて、
そして私と関わってくれてありがとうという感謝の気持ちが芽生えた。
観察期間中そんな平和な気持ちで終わるかと思いきや、
揉める出来事があった。
私の軽い冗談の延長の一言を過大に受け取って、腹を立てた。
その反応を見て、夫が勝手に自分のフィルター越しに見てるだけじゃん
と思った。私にとっては悪気のない事の発端から起こった出来事だったから。
だからこれは相手の問題で私は関係ないと思ったのだが、
それを近くで見ていた別の家族から、
「そんなことわざわざ言わなくてもよかったのに」と言われて、
あ、私のしたことって怒るようなとだったの?ハッとした。
認識の違い、フィルターの違いを第三者の言葉により冷静に捉え、
そういう見え方もあるのかと三者三様のフィルターの存在に気付かされる。
そして私が放った一言は悪意のない言葉などではなく、
実はうっすら感じていた日々のチリが積もったような不満を
ここぞとばかりに放ったものだった。
私も不満を感じてるんだから冗談めかして少しくらい本音を放っても
いいだろうという思いがどこかあったことを自覚した。
その一言に翻弄され、自分のドラマを投影してるのはお互い様だけど、
結果として私はただ私の心に気付かされたのだと思った。
それを映し出してるだけなのだな。
定点観察してると 普段一体化させて気付けない
相手に覆わせている着ぐるみ、自分が被っている着ぐるみに気付かされる。
でもそれを脱いでも着替えてもいいんだよなと思った。
夫を観察対象にしました。
観察してみて、思っていたほど日頃相手のことを見ていないんだな、
と思いました。そして、相当意識しないと観察するのは難しかったです。
年末年始でバタバタしていたからか、
すぐに観察することを忘れてしまって、何となくいつも通り過ごしてしまい、
そうだ観察しなきゃ!、と何度も思い出しては意識しました。
夫を観察すると、
私は自分の価値観で相手を見ていることがよくわかりました。
こちらの何かしらかの感情が動くと、
夫に対してイラッとすることがあります。
しかし、夫は別にこちらを苛立たせたいわけではなく、
いつも同じなんだよな、と思いました。
私が勝手にフィルターを通して見ているんだよな、と。
私の言動などについて、なんで?、と聞かれることがあり、
それを責められていると感じる時があります。
でも、夫はただ疑問に思ったから聞いただけなんだ、
と言うことがわかってきました。
夫はただ確認したかっただけなんですよね。
夫の性格を考えると、何でも確認して納得したいタイプだから当然か、
と思えました。
いつも一緒にいてもわかっていないことが多いのかもしれない、
と感じました。
一緒に過ごす時間が長い夫に対してもそうなのだから、
友達や会社の人などは本当に一面しか知らないんだろうし、
自分が見たいようにしか見ていないんだな、と言うのが少しわかりました。
母にしました。
母と会う事を億劫に感じてしまうことが増えて、
その気持ちと向き合いたいと思ったからです。
年齢を重ねるにつれ、母の発言しそうな事は予想がつきます。
あぁまたこう言うんだろうなぁ、この話をするのだろうなと
その思考が“嫌”というフィルターとなって余計に足が遠のいていました。
また、こういった感情を抱いてしまっていることに
罪悪感を感じている自分もいました。
母のことを心の中ですごく責めている自分と、
母は正しいと思いたい自分。
こう書いていて母が悪者のように見えたら嫌だなと思う自分。
母を観察している時は不思議と冷静でいられて
母の発言を「ただ発した言葉」として認識している自分がいました。
その言葉をじっくり噛み締めてみても、
母が何を思ってその言葉を発したのかと思いを巡らせてみても
嫌になるようなことは言っていない。
母には何の悪気もなくて、その言葉に良い悪いもない。
完全に私の恐れと怒りのようなフィルターが分厚くなっているだけでした。
会う前は色々考えてしまってこれまでにない程正月が嫌だったのですが
関係性に慣れてしまうとあれこれ決めつけてしまっていること
フィルターを通した見方を信じ切ってしまっていること。
そして、会ってみて初めてあがってくる感情がある、ということを
思い出せたのは良いきっかけでした。
会うのがもし億劫に感じたら、会ってみてから
その感情と向き合って行けばいいんだな、と実感しました。
その感情と出会いたくても
一人では何もわからないんだなぁと改めて感じました。
職場の人を観察することにしました。
新しく入ってきた方で二十代半ばの現場未経験の方です。
観察すればするほど段々腹立たしく感じていることに気付きました。
どうしても出来ていないことが目についてしまい、
経験がないから仕方ないと我慢している自分がいました。
何度教えても忘れたと言われ、できなくても悪びれず、
ヘラヘラ適当に仕事をして 免許や資格がないのに
正社員として給料をもらって、一緒にいるとなんだかもやもやする。
私の中で、彼はずるい人になりました。
そして同じ土俵で私は仕事を真面目に取り組む人。
常に怒りを抱えている人になりました。
自分の中で仕事はきちんとすべきだというルールが発動しまくり、
苦しかったです。
そしてこのタイミングでコロナでお休みをする人が出てしまい、
さらに仕事が忙しくなりました。
彼はますます空回りし、私は仕事量が増えてイライラがつのり、
その責任のほぼすべてを彼に押し付けて、
自分だけが大変な思いをしているような孤独感を感じていました。
そしてついに余裕がなくなった結果、職場で泣いてしまったのです
(1人でいる時ですが)。
緊張の糸が切れてしまったように勝手に涙が出てしまい、
もうダメだと感じました。
また同じことを繰り返しているなぁと薄々と気付いていました。
前の感想に書いた新人さんと同じパターンです。
仕事はこうあるべきと自分に課して人にも求めて、
自分だけが頑張っているような気持ちになって
追い込まれて爆発する、みたいな。
宿題は観察するということでしたが、そのまま観察するというよりも
途中から私の先入観に当てはめて相手を見ているなぁ
と気付いていました。
ずるい人以外の面を見ようとしなくなっているというか。
相手の可能性を排除しているから、私自身も苦しくなりました。
一生懸命頑張るという働き方は時代遅れなんだろうなと思います。
本当は私も窮屈な働き方はしたくない。
でも人の命にかかわるという(思い込みかも)場面で、
手を抜いたり適当にやる怖さが私にはあるのだと思います。
バカ真面目で疲れました。
今はよしよししたり、自分のご機嫌すら取るのが難しいなとか
面倒だなと感じてしまいます。
いろいろと頭で考えすぎているのかもしれませんね。