先日、朝4:30に起きて恵林寺の坐禅に参加してきました。
お庭の枝垂れ桜がもう満開で、綺麗でしたよ〜✨
今年は例年より桜の開花がかなり早いということで
急な春の訪れにびっくりです🌸
とはいえ、早朝はまだまだ寒く
暖房なしで裸足で坐るのは
なかなかに・・・修行モードでありました😅
さて、3/17に3回目を開催しました、5回連続の
毎回思いますが、
同じことをお伝えしていても
皆さんバックグラウンドやアイデンティティ、
持ってる信じ込みなどが、当然ながら違いますから
人によって受け取るものや解釈、ひっかかる部分は
ほんとそれぞれで、
そこがまた私にとっても
興味深く、面白く。
十人十色ならぬ六人六色🌈
これより少ないときっと
この「ホントに人によって全然違うんだなぁ」ってことは
伝わりづらかったと思いますので、
6人集まっていただけてよかったなぁ、と
つくづく。しみじみ。😌
私たちは「自分だったらこう思うから」をベースに
他者の氣持ちなどを想像したりしますが、
本人に確認しない限り
それはどうしたって想像の域を出ることはないわけで。
想像して他者を理解しようとすることは
もちろん尊い行為ではありますが、
時に、「想像が絶対だ!」と思い込んで(もはや妄想)
全然検討違いかもしれないにも関わらず
そうじゃない可能性は全く見ないで苦しんでいる方も
見受けられますので、、
「ホントに人によって全然違うんだなぁ」ってところを
落とし込んでおくことは、楽に生きるうえでも
大切なポイントではないかと思います。☺️
ご感想と氣づきを、受講生同士が読み合うことで
(過去の受講生も含め)
そこからさらに氣づいたり、より深められるように、
ということをメインの目的として、
またここにもシェアさせていただきますね。
受講生以外の方が読んでも、
ヒントになることはいっぱいあるんじゃないかと
思っておりますが、
講座の内容について書かれている部分は
各受講生フィルターを通した『一部』であり、
適切には伝わらない可能性もありますので、
ズレて解釈して受け取ると
かえって苦しくなることもあるかもしれないですし、
ゆるーく、読んでくださいね。
受講生の皆さんには、追って
グループLINEの方で
またもろもろ伝えさせていただきます💓
質問してくれた人がいたおかげで、そういうことか!と、
はっきりして良かったです。
(その他の質問もすごく参考になって助かってます)
自分が理解しきれてない部分、質問さえも上手くできないことを、
他の人の質問(視点、切り口)によって理解が深まるのは
複数人での受講のいいところですね!ありがとうございます。
感情が生じた時点で我慢して相手に何かしなくても
その土俵にのっているというのが理解できました。
相手に何か言ったり、したりしなければ、
枠に入ってないと思って、見過ごされがちな部分だと思いました。
また、我慢してることも結構あるかもと気づきました。
自由と責任。
介入は結構しているなぁと気づきました。
人のせいにしているから、相手を変えたくなって
介入している時もあるかもしれないです。
でも、上手くいかないからイライラするみたいな悪循環も多いです。
自由が好きなのに、
たくさんの枠に長い間がんじがらめになっているからか、
自由に選んでいいよ、やっていいよと言われても、
自分は本当はどうしたいのかわからなくなっていると感じています。
痛みからの選択ではない本来の自分の個性、シナリオは見えてくるのか。
今の時点では、先は長いなぁという感覚です。
今まで、時には一生懸命にオールを漕いで、上手く行かないと、
漕ぎ方が足りない、やり方が良くないと自分を責めたり、
がっかりしたりしていたが、自分の本来のシナリオとは
違う方向を向いていたということなんだろうか?
そもそも、オールは漕がなくてもいい。
講座のお話を聴いている分には、なるほど〜そういうことか
とわかる(わかった気になる)けれど、
実際自分事として落とし込むのは意外と難しく感じます。
でも、難しいなぁで終わらせないようにしたいです。
気づいたところから、焦らずやってみようと思います。
失礼があったらごめんなさいですが、
まゆさんの懐を信じて委ねたと、ご海容ください。
<感想>
・けっこうするするっと聞けて気になる場所はすくなかったです。
いい意味です!ワンネスの縦軸横軸ってなんでしょう?とか
理解度を試されると「聞き逃しました」って感じだ
けど、
1回聞いて分かった範囲で今の私には⼗分です、という感じ。
「だってあんまり早くなくてもいいって⾔ってたしさ、、、」、
とかそういうとこは都合よく覚えていますが笑。
・引っかかった箇所①、仕事を例にして、「権利と義務でやるより、
⾃由と責任でやるほうがいい仕事ができると、経営者⽬線で思った」
というお話は、「げろげろ、勘弁してよー。
仕事の話。
そして権利と義務でいいし向上⼼もないよ。。今の仕事には。」
と思いました
笑。本当に、今の仕事が嫌なんだな。
いま在宅勤務⽇の朝に書いていますが、1⽇TV⾒
てゴロゴロしたいです。
今⽇はやることあるので実際は無理ですが。
本当にそういうとき
もあります。
やる気でないときにやってもしょうがないですしねーと⾔い訳しつつ。
ちなみに成果報酬でも歩合制でもない給料制なので、ただの穀潰しです。。
まゆさんが経営者のままだったら、
「なるほど、マジでこういう労働者もいるのか、対策せねば」
となるかもし
れないですね汗。
・引っかかった箇所②あとは、過去の会社の新⼈アシスタントさんの
遅刻のお話とか、まだ「⽣」の部分がある、怒りを感じました。
まだ怒ってらっしゃるなって。。なので印象に残りました。
私の受け⽌めなので、本当に未消化の怒りをお持ちかは、
もちろんわからないですが、やっぱり分離はドラマチックなので、
⼈の⼼を動かすよな、ってことでもある
な、と思いました。
・「私という枠が最後に残る」というお話を聞いて、ならば、
と思いだしたのが、以前まゆさんには直接話したことのあることです。
私は12歳まで、「鏡に⾃分を映すとこれが⾃分であると信じられなくなる」
という現象がしばしばありました。
「えっ。私ってこの体の
中?この中にしかいないの?あ、指動かせる、
やっぱりこれが私?あれ、信じらんない信
じらんない。えーうそー。
わかんないわかんない。」と、部屋に寝転がってじたばたしてい
た、
幼い記憶があります。
だいたい、親はおらず、⼀⼈で部屋にいたときに時折やってました。
もう少し⾔語化できるようになると、
「⾃分は、宇宙全体に茫漠と広がる意識だと
思っていた」
と感じていました。
この、「茫漠」という⾔葉がけっこう我が意を得たり、でしたね。
さらに、10代後半で解釈を加えたときは、
「思考が無限⼤の広がりを持つのに対して、⾝体の局在性に、
混乱してしまったんだろうな」とか思っていました。
スピ系に触れていくと、あれってもしかしたら
ワンネスに通じる感覚だったかもしれないな、と思います。
・スピリチュアルって思考しちゃいけない分野かもしれないですが、
数学とか哲学の、形
⽽上学的な学問って、純粋理論過ぎて、
逆に両者は近しい気もします。次元とかも数学的
に定義できますものね。
テンションが上がって、「次元とは何か」のNewton特集号を買って
読んでみましたが、
全部論理的に書かれているのに、
読んでもまったく意味がわからず、イメージできないの
がすごい笑。
スピリチュアルだと、13次元の世界、とかも
ふわっとイメージすればいいですが、科学だったら、
「超ひも理論からこの世界は9次元であることが導出できます。
我々が住んでる世界は3次元なので、残り6次元に説明をつければ、
どうして我々が住んでいる世界が3次元か説明できるはず」とか
そのNewtonには書いてあって、控えめに⾔って
科学って狂ってて最⾼だな、、と思いました。
4次元ですら、理論で説明されても、まった
くイメージできないですね。
(というか、私みたいに空間認識能⼒が低い⼈間だと、
3次元もうまくイメージできてないし。)物理も数学も、
ある分野の最先端の理論を理解できるのって世界で100⼈いないとか
(Copilotに聞きました)、、最⾼だな、、。
物凄くそれたことを書いてますね、これ、失礼いたしました。
・「川の流れ含めて私」「私とあなた含めて道」の話、
おもしろかったです。
そこを追究したくなるように、
まず私という個体を煩悩で満たすべく、マッサージを受け
て、
おいしいもの⾷べたいなと思いました(?!)。
他者を巻き込まずとも消化できるということを
コロナ禍の瞑想で感情を消化したという実体験を交えて話していただき
改めてありがとうございました。
直接の感想からは少し外れるのですが、、
まさに同時進行で、怒りの感情について体験することが続いているので
シェアさせてください。
この数日の間に、気心知れた昔の同僚と仕事を絡めた諍いがあり。
自分的には、人間関係はうまくいっていて
しばらくトラブルらしいトラブルも経験していなかったのですが、
久しぶりに他者に対してわかりやすく怒りとか
ムカつくという感情を抱きました。
胸の奥の方がワナワナと震える、、みたいな感覚です。
(LINEで質問した時はまだその予兆という状態でした)
彼女は、昔同じ職場で仕事をしていたという影響もあってか
何を考えているのかわかる、まさに同じ枠を共有しているという相手で。
ポジティブな感情だけでなく負の感情も抱くこともままあったので
なんとなく距離を置いていたのですが、
まさにこの講座を受けているタイミングでその諍いが起こり、
なるほど、この見ないようにしていた怒りの感情に気づかせるために
今この体験が起こったということか、と思ったのでした。
怒りに限らず、他ではあまり昂ることのない
感情を揺さぶるために存在してくれている友人なのだな、と。
そして、やりとりをする中で、相手に対し
「私が怒りもせず言うことをきいてくれると思っているのだろうか?」
という不満のような感情が出たのですが、
ハタと、それは相手に対して出たけれど、普段自分が自分に対して
行なっている行為そのものでは、、と思ったのでした。
怒りの感情を抱いているのに、それは無視して
ただ思考のいうことをきいてくれる、きかせる肉体、
として扱っていたのです。
その気づきはハッとするというレベルを超えて
ちょっと恐ろしさすら感じました。。
彼女に対してなんとなく距離をおいていたことも、
それは切り捨てる行為であって、含むとは逆、、
つまり、それをしている限りは自分の感情というものも
無いことにされるだけで含まれることはない、ということだよな、
とも思いました。
さらに、結局今回もそのやり方を選択してしまったと思っていますが
思考でもって自分の正当性を主張し、相手をやりこめる、、
という解決策がいつもの自分のパターンであることも認識しました。
それはまさに脳ミソが気持ちいい状態で、
でもその裏で、感情を感じることがないことにしていたということか、と。
講座の中で触れられていて、まさにそうだと思ったのは、
我慢する、というのは、自分に対してだけやっているつもりで、
同じ剣で相手も断罪したくなる、それを強いたくなるというところです。
自分が常に、正当性とか正義とかという剣をふりかざしたい
と思っているのは
それを自分に強く課しているからで、
それによって自分が苦しんでいることには気づけていなかった、と。
これは正しいことだ、という思い込みでいつも自動反応していて
それ以外の選択肢を考えることもしなかった、、と。
そういう正義感とか好奇心すらも、
自我の餌みたいになっているという話も興味深いと思いました。
自分の価値をあげるために利用している、
それはもちろんたしかにそうなのですが、
それが良くない(善悪はない、とはいえ)
そうではない選択肢がある、と気づくことは
かなり難しいことだと思います。
それから、自由と責任/義務と権利の関係についての話も
スピリチュアル的な見方としてだけでなく
一般論としても理解が深まる感じでよかったです。
ささいな家事ひとつとっても、何であれ
自分でそれを能動的に選択してやっている、
その結果責任を負うつもりがある、という心持ちで
目の前のことに取り組めたら結果は全然違うだろうと思います。
他者に何かを促す場合も、そういう意識になるよう
関わっていけると良いよなと。
以上です。
改めて講座の話と実体験がリンクして学びが深まるのは
とても興味深いと感じています。
ありがとうございました。
自分ひとりで消化できるという話を聞き、
時々けむたく感じる母からの小言も、
私が母にそうさせているのかもしれないという視点に立てた。
私は責められたかったり罪悪感を感じたかったりするのかもしれない。
今も夢で「私はあなたの彼氏じゃないのだよ」と、私の監視をして
自分をかまってくれないとすねて束縛をしてくる母に向かって、
ぼやいていた。(一方、彼氏ならそれをしてもおかしくない存在だ
という自分の認識にも少しぎょっとした)
・身体以外の世間話や相談もするパーソナルトレーナーから
「情報はタダじゃない」と何度か言われたことがある。
最初は話の流れから、私に対してのクレームのようなものだ
と気づけずにいたせいか、その枠を持てていなかったが、
何度か言われるうちにその枠が自分に出てきてしまったように感じる。
相手は私が土俵に上がらないことでムキになって
その枠を押し付けていたのだろうか?あるいは最初から
多少の違和感(どうしてこの人そんな発言するんだろう等)を
抱いていた時点で私にも同じ枠があったということなのだろうか。
・他者と接していて、なぜトラウマに付き合わされ(≒枠を押し付けられ)
なきゃいけないんだと思うことがしばしばあるが、
人間のご縁というものはそういうものか?
まだ家族やパートナーなどのとても近い関係ならそれも許容できるが、
距離の遠い関係性やパーソナルトレーナーのように
金銭が生じている関係性だと許容しにくい。
・すべて自作自演なのに、自分が介入できない相手の世界
(相手の認識ではなく)なんて存在するのだろうか?
・ここ10年程は、繊細な人との出会いが多くなり
気遣いする必要が増えてしまっていた。
類は友の法則なのか?
自分になにか気づかせるための自作自演なのか?シナリオなのか?
見分ける方法はあるのだろうか?
・今の会社に入った時に覚えた違和感のひとつである
「残業をしてもらっている、働いてもらっている」という風土。
今ではその違和感を覚えにくくその考え方がナチュラルになってしまった。
きっとその枠を受け入れてしまったのだろう。そう考えると
昔の私や取り巻く環境が自主性の中で生きていたように改めて感じた。
エリート的な存在の人達の方が自主性が高いのか?
しかしエリート的な存在の人達の方がある種の枠が多い環境の中、
育っているようにも感じていた。
(大事に、もしくは厳しく、育てられた籠の中の小鳥のような。
※籠が枠だったのか!とも思った)
その枠は環境に設定されたようで自主性によって
自分を縛っているのかもしれない。一方、そうではない人達の方が
被害者意識で強いられている枠という風に設定している気がした。
・ひとつめのワンネスとふたつめのワンネスで、
順番が大切なのだろうと思った。
聞きかじった知識で、
ふたつめのワンネスの世界である、すべてはお任せの世界だと
先に捉えようとしてしまうと、誤解が生じたり、
自己肯定感あるいは自責感が育たなかったりする気がした。
今回は、スピリチュアルに対して、言語化できないけど
心にあった不安のようなもの?
を、やっぱりそうなんだ!と
教えてもらったような、そして目から鱗も多い回でした。
まずは、「好奇心」が手当ての可能性がある、というのは
完全に盲点でした。
好奇心は、私の心からの思いだと思い込んでいました。
なんでも経験してこそ!が行動の指針だったのです。
でも思い返してみたら、向き合うべき自分から逃げるための手段、
甘いお菓子みたいです。。。
中毒性が凄まじく、ずっと「新しい経験」で手当てし続けていました。
特に仕事についてなのですが、
私は好奇心が旺盛だから、色んな経験をしてみたいから、
という動機で仕事を選んでいて、
それじゃ何がやりたいの?ってことが、ずっとわからなくて。
講座とワークを続けてきた今わかってきたのは、
とにかく自分を認めて欲しいということです。
私はすごいと周りの人に思ってもらえるような仕事を選んでいました。
まさに痛みが動機で仕事を選んでいたんだと気づきました。
だから上手くいかないことが出てきて、
それが降り積もって辞めることになる。
新しいことをしたいから、ではなくて、苦しくなって辞める。
能動的選択が、いつしか受動的選択にすり替わっていたのですね。
でも今気づけた!
次は、自分の選択を面白がれるという俯瞰の目線を手に入れて、
選択してみたい!です。
そして、「責任」という言葉への抵抗があったこと。
自分が選んだ選択の「責めを負わなければならない」が
「責任」だと思っていました。
そして、その責任は外に向いていて、
自分が選んだことで人から与えられた影響は、
甘んじて受け入れなければならない、というなんという枠!
これは私の身に起こったことじゃないと思えば思うほど、
そのことから離れられない。
人のせいにばかりする家族について、私は違うとずっと思ってたのですが、
自分の選択を人のせいにし続けてきていた、だけでした。
(そして、こういう気づきって道を歩いたりしている、ふとした時に
ハッと気づくの面白いですね)
最後に、スピリチュアルにばかやろう!と思ったときもある、
という話が聞けて、
私だけじゃなかった!とちょっと安心しました。
なんで私はこんなにずっと難しく考え続けているんだろうと、
スピリチュアル知らなくても、楽しそうに生きてる(ように見える)
友達を見ては、
そう思う時がありました。
でも、「知っちゃったんだから。」ですね。
本当に心からそう思います。
次回もよろしくお願いします。
ずっと刺さることしか無いわーという時間なのですが
今回で特に気になったところとしては
相手を変えることができない・介入の違いの話です
「べき」「正義」「よかれ」
「変えられる世界」について
まゆさんの「介入」についての話を聞いていてわかったことがありました。
生きているだけで向こうから宗教が寄ってくるという話を
つい先日まゆさんに愚痴ったばかりでしたが笑
生まれた時から親がカルト宗教だったもので、本当に宗教が苦手で
しかし駅のホームにいれば「彼ら」に話しかけられるし
仕事をしていても「彼ら」がひたひたとやってくるし
それらを嫌う人がそうとは知らずに、私にめっちゃ絡んでくるし、
などなど
なんなん・・・・!!
一番寄ってきて欲しくない宗教をみんなして持ち寄ってきて
私の周りでパーティーするの何なん・・・!
って叫んでいた今日この頃だったわけですが
まゆさんの「介入」の話を聞いていて
そうだ、宗教は生粋の介入だと思いました。
よかれと思って全ての生き方を義務として押し通すあの感じ
ずっと「宗教」だと思っていたテーマの本質は
「介入」だと思いました
(※全ての宗教がそうだということではなく、宗教を介入の道具にして
何かしらをこじ開ける人・組織が私の苦手なものです)
「介入」といえば戦争の原因でもあって
(まさに今、絶賛やっている世界にいますが)
カルトと言われる宗教の世界では
他人の世界に介入することが当たり前というか、
それこそが素晴らしく、いかに介入して考えを「変え」させるかが
至上命題になっているわけです(こう書いてみると凄いな・・)
これは戦争の構図そのもの、摩擦の構図そのものですね。
前世で戦争に巻き込まれた記憶がある私は
今世でも戦争の影響を日常でとても気にしていて
さてどこに疎開するかな・・備蓄足りるかな・・・と
頭の隅にいつも考えていたりします。
こうしてみると私は宗教というよりも
「介入」に相当強い痛みがあるようです。
ということは過去やなんなら今、私も誰かに
「介入」しているかもしれません。
もう1つは自由責任権利義務の図がずっとこう
目に刺さってきました笑
特に会社にいたりすると、もうこの4つが
いつも頭上を飛び交っていますよね。
あっ!若手が義務を権利にすり替えて投げた!!
課長、一度受け止めて三塁の部長に投げた!!みたいな
なんというか、この自由責任権利義務の図を
いつも頭上に浮かべておいて
常に今の会話は何が何に化けたのか、
テロップを都度実況の人に出して欲しいと思いました。
一旦、以上です!
【第一期・二期の受講生がまた講座を聞き直しての氣づき】
*また届いたら追加します
こんばんは。
先日ゼニスの再受講ありがとうございました!
翌日朝目覚めた瞬間から水曜くらいまで感情の浮上が続き、
再受講でもこんなことになるのかと少し驚きでした。
そんな中、3回目の講座の聴き直しをしました。
更に深い内容に入ってきているのもありますが、集中できないというか、
どこか拒否しているような感覚があり、今回は映像でも見返したのですが、
何度も巻き戻したり止めたりして考えているうちに、
じわじわと本音に向き合うことになりました。
特に「自由と責任」のところは耳が痛く、
自分の仕事に当てはめて考えました。
今は会社を辞めるという選択の結果を含みたいはずなのに、
完全にゆだねるというところにはいけない。
結果の責任をとる勇気がない。
執着や仕事を失った時の過去の痛みもありますが、
一番は家族にも迷惑をかけるのではないか、心配をかけるのではないか
という気持ちが大きい。
未消化の感情、掟の発動、価値判断でがんじがらめになっていますが、
結果的に自分が「失敗した」と思うことへの恐れから、
責任を外側に置くことで選択しないようにしているのかなと思いました。
成功も失敗もない。どちらもおなじ。
頭の中ではそれが真実なのだろうと思いつつ、同時に
これまでさんざん失敗してきたと思っていて、
それを失敗と素直に認められずにもいました。
これは縦軸どころの話じゃないよね。くーーっ。というのが本音です。
あと、今までは無意識に葛藤することも避けがちだったかなと。
今回はもう少し葛藤してみることを選択しようと思います。
あと、今回特に印象に残ったところは
「コントロールを手放したとき見える世界は大きく反転する。」
という言葉。
この真実のために頑張りたいと思ってしまいました。
といってもずれないようにコツコツと。ですね。
毎回新たな発見がありますね。
今回の振り返りもよき時間になっています。
いつもありがとうございます。
【日々と宇宙の講座ベーシック第三期生の皆さんのシェア】
