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2023/03/13

思考・感情・肉体=自分 ではない、から気づけること。2 〜日々と宇宙の講座の宿題より

 

 2/12に5回目を開催しました、5回連続の

瞑想の他にも、
あるワークを最低10日間、やっていただきました。


自分の中の掟を見つけて、寄り添って、
瞑想を体験した後だからこそ
「私ではない」という視点を持つことができる。 

と書いてくれてる方もいる通り、
1年かけて伝えるべきことは伝え終わって、
今までのワークも瞑想も、体験してもらった後だからこそ❣️
満を持してのワークです。


瞑想をしていたからこそ、私と3センターが他人である、
と感じられる瞬間があったんだと思います。

これらの出来事の後に瞑想をしたら、
まゆさんの言葉がスッと入ってきました。

瞑想での感覚に慣れていって、
またしばらくして同じ課題をやってみてどうなっていくのかも
やってみたいと思いました。

と書いてくれてる方々もいるように
このワークと瞑想は、ベクトルとしては一緒なので
行ったり来たりしてやってみるとまた
深まるものはあるんじゃないかと思いますね。☺️


受講生が踏んだ1年間のプロセスが絶対必要!
とまでは言いませんが
このプロセスがないと、勘違いやズレは起こりやすい、
とは思うので、、

どういうワークかをここに詳しく書くことはできません。
もし表面的に真似されてしまうと、感情に蓋をしたりして、
かえって苦しくなる可能性大なので。。


そのため、受講生以外の方にはわかりにくい部分も
あるとは思いますが、

ここでは、ワークをやってみての気づきを、
受講生同士が読み合い、 
そこからさらに気づいたり、より深められるように、 
ということをメインの目的としてシェアしておりますので、
ご了承くださいね。


でも、「思考・感情・肉体=自分 ではない」って
どういうことだろう…? と思う方には
とても興味深い内容だと思いますよ。☺️


思考・感情・肉体に日々突き動かされているのだと感じつつ
マインドと身体はこんなに関わっているのか!とも思うし、
マインドとはそんなもんなんだな、とも思いました。 

っていうね、
ここに気づくだけでもね、違いますから。


思考と感情はどっちがどっちなのかわからなくなる時も多かったです。
思考と感情は繋がりが強い、どこからと区別がつかないほど
必ずセットになっている。 

って書いてくれてる方々もいるように
私たちって瞬時に、感情⇄思考にスイッチしてます。

区別しようとすると、その「瞬時」を
「スローモーション」で観ていかないといけないので、
そこでようやく、見過ごしてきたマインドのメカニズム、
みたいなものにね、気づき出すことができるんですよね。


普段、感情と思考の関係性のことなんて、
あんまり思いもしないでしょう?😆


私たちの多くは、
感情を感じているようで思考してたりするので
感情にシンプルに寄り添うって、超・苦手。

「どうしたらいいですか?」ってよく聞かれるので
このブログでもさんざん書いてきましたし、、
そりゃあ、なかなか消化されないわけです。。😅


でも、第2のワンネスに触れ出すと、
そこもまた『反転』するので、、

寄り添いたいと思っているのももどきの自分で 
寄り添ってあげたほうがいいと思っているのももどきの自分、
ということに気が付きました。 

・・・といったね、
さらなる自作自演に気がつく。。


「それは私ではない」までいくと、
この媒体の呪縛から抜けたような感覚
って表現、言い得て妙です。☺️


ではでは、ブログではこの辺にして
あとは受講生には
グループLINEでお話ししましょう♪




今回の課題をやってみて、 
思考・感情・肉体に日々突き動かされているのだと感じつつ、
なかなか「それは私ではない」というところまでいくのが難しく、 
そこまでいこうとすると無意識に思考で分析しようとしてしまい
ぐるぐるしそうになってしまいました🌀😅 

でも体が疲れ果てて余裕がないピークの時や、
感情を堪えきれず爆発するする時に、ふと
外側が渦中のまっただ中でもすごく冷静で静かで淡々と見つめている、
もう1人の私?の第三者目線のようなものを微かにただ感じました。 

ただ見ているだけなので、起こっている現象は何も解決しないし
変わらないし、本当にそれだけだし、
瞑想の時のようにリラックスしてるわけでもなかったのですが、
まるごとその存在を認めるしかないというか
引き受けるしかないし信頼するしかないという
不思議とぼんやりと明るい感覚でした。 

ちょっと他人事のような
いいも悪いもなにしててもどうでもいいよねっていう、
思考で分析すると半分現実逃避なのかなと疑ってしまうような感覚でした。 

社会生活を送るには3センターもなくてはならないなと思いつつ、
それだけの世界で振り回されてワチャワチャしているのと、
それらから離れた意識の存在を知っているのでは
拡がり方が全然違うなと思いました。 

瞑想での感覚に慣れていって、
またしばらくして同じ課題をやってみてどうなっていくのかも
やってみたいと思いました。
変化があるかないかわかりませんが、それも含めて楽しみに
この講座で学んだことを
これからの生活に浸透させていければと思います😊 

どうもありがとうございました❣️ 
そして今後ともどうぞよろしくお願いします🥰



今まで、寄り添う、ことを心がけていたので、
ここにきての、他人事、なかなか難しかったです。 

肉体が疲れていて、これはソノザが疲れている、としても、
この疲れを感じているのが自分じゃないの?、と
なかなか納得できなかったです。
疲れている時だと余計に難しく、、、。 

思考や感情も、これは私ではない、と流せる時と、
やっぱりそうそう簡単には無理だ!、と思う時がありました。 
思考と感情はどっちがどっちなのかわからなくなる時も多かったです。
他人事にしなきゃ、と思いすぎたのかもしれません。
これはどっち??、と突き詰めちゃいけないと書いてありましたが、
一回始まると止めるのも大変でした。 

もともと色々考えすぎる癖があるみたいで、
どうしても他人事にするのが難しかったです。
その時は、瞑想じゃないですけど、
そのイメージで流すようにしていました。 

そうやって課題を続けていたのですが、
ある時電車の中でイラッとすることがあり、
これはソノニで私ではない、と頭の中で呟きました。
そしたら、他人事なのかこの感情は他人事なんだ、と
急に思えて笑えてきました。
みんな他人事なら、これに悩んだり時間かけるのバカらしいな、と。
そう思えたからか、イライラも
いつもより早く無くなったような気がします。 

それまではこれでいいのかなー、と思いながら課題を進めていました。
でも、急にふと思える時がきました。
しかし、この他人事を自分のものにするのはまだまだ先が長そうです。 

この課題をやっていて、
先に瞑想のワークをしておいてよかったな、と思いました。
瞑想をしていたからこそ、私と3センターが他人である、
と感じられる瞬間があったんだと思います。



最後の講座が終わってすぐから、課題提出までの間、
特に前半に感情が動く事がいろいろありました。 
わけもなく悲しくなったり、自分に自信がなくなったり、
義父の事でやたらイライラ怒りの気持ちが沸騰したり、
友人のことで複雑な気持ちになったり。
いろいろな予定に振り回されたり、なんだかバタバタしていて
身体もとても疲れました。 

予定に振り回されるという表現、とても他人軸ですね。
今書いていて思いました。
講座を受けたからそう思うんだと思います。 

ここ数年、割と気持ちが穏やかだったのですが、
なぜだか心がざわざわする事が多くて、
課題するにはとても良かったと思います。 

1つは、そんなに大した出来事があったわけでもないのに
何故だかやたらと『自分はダメな人間だ』の思考が湧いてきて、
しばらく落ち込んだりしていました。
何故自分はこうなんだろう?自分は価値がない人間だ、
みたいな感情を感じました。 
昔はよく感じていましたが、この数年はたまに感じる程度でした。 

それと、最後の講座の感想にも出てきた友人の事です。 
彼女は、ざっくりいうと、家族ぐるみのお付き合いをしている
長男のママ友です。
家がすぐ近所で、お互い夫の実家に同居しているので、
夫や、同居の悩みを分かち合え、支え合ってきたかけがえのない存在です。 
彼女も私も、もともとスピリチュアルが好きなので
そういった話もできる、特別な存在でした。 

その彼女が、昨年くらいから、聖書の勉強会に行く様になり、
洗礼を受けたそうです。いわゆるキリスト教とは違うそうなのですが、
聖書を勉強し、深めていく団体らしいです。 

先日その友人と、久しぶりに食事をしていろいろ話しました。 
私もその中で、ヘルメスの七つの原理を勉強している事を話しました。 
翌日LINEがあり、彼女が今勉強している聖書の認識では、
ヘルメス主義は魔術で、スピリチュアル自体も、
サタンから来るもので悪なんだよ。と教えてくれました。
以前はあれだけスピリチュアルの事を話し合っていたのに、
こんなにも真逆の思考になる事に驚きました。 

私は、まゆさんの講座を受けて、善や悪など、ジャッジしないで
両方を含める様になれたら良いなと思っているところだよ、
という様な感じの返事をしました。

彼女が勉強している事では、LGBTなどもダメで
善は善、悪は悪、とはっきり分かれているそうです。
とにかく、聖書を信じる者は救われる様でその事が大事らしいです。 

お互い勉強している事は真逆かもね〜という感じで
LINEの会話が終わりました。
彼女がもう遠くへ行ってしまった様な気がして
とても寂しく、悲しく思いました。 
悪は排除して善しか受け入れてはいけないというところに、
イティハーサの桃源郷を思い出しました。
すごく偏っているのに、
その中に入ってしまうとなかなか気付けないのだろうと。 

そんなことを考えていて思ったのは、
私は彼女に依存していたのかもしれないという事でした。
数年前、彼女がガンを患い、いなくなるかもしれないと思った時に、
いなくなったらどうしようと恐れの気持ちが湧き出た時も
同じだったと思います。特にその頃は私も精神的に辛い事が多くて、
彼女の存在が支えになっていました。
私の気持ちを本当にわかってくれて、
はけ口だった彼女を失うのが怖かったんだろうと思います。
彼女を心配していたつもりが、結局は自分の為だったんだと
今回気づきました。 

ちょうどこの課題が出ていたので、
今回の出来事も気持ちの整理がスッとできました。
この寂しい、かなしいという気持ちも
私が作り出しているだけなんだなぁと思いました。
彼女がそれで幸せならそれで良いかもと思えました。

そして私は、自分自身で何を考え、どう生きるかだなと。 
この講座を受けていたから、
彼女との事も短期間で冷静に受け止められたと思います。 

義父に対してもやたらと怒りの気持ちが湧いてきました。
まあしょうがないよなと普通にやり過ごせていたのに、
ここ最近は怒りの感情が度々湧きました。
身体から炎がメラメラ燃え上がる様な
憎悪の気持ちが出てきた事が1回あって、自分でも、
うわーそこまでの気持ちになる⁈と思ってしまいました。

もともと感じていたのに蓋をしていただけなのかもしれませんが、
でも、それも私が作り出しているだけなんだと思いました。
そういう発想が出てくるのは、この講座のおかげです。 

次の日も同じ出来事があったのですが、
その時は怒りが湧きませんでした。違いを考えたら、
疲れていたという事なのかな?と思います。
疲れているとどうしてもイライラしやすくなります。
マインドと身体はこんなに関わっているのか!とも思うし、
マインドとはそんなもんなんだな、とも思いました。 

感情がたかぶっている時に、課題をやってみたら
気持ちの変化はあまりなかったので、
少し落ち着いてからやるのが良いのかと思いました。 

これらの出来事がいろいろあった中で取り組んだ課題は、
自分でも興味深かったです。 自分の事を俯瞰で見ているのですが、
以前よりクリアに見えていました。 

特に感情に関しての事が多かったのですが、
感情が落ち着いた時に、感情に話しかけてみると、
気持ちが晴れて落ち着きました。
笑ってしまうほどうるさかったので何度も話しかけました。
そして、これらの感情を作り出しているのが自分なのかと思うと
笑けてきました。 

身体にも話しかけていくと、
身体は私では無い様な感覚になりました。 
ここ最近ずっと身体が疲れていたのですが、
これは疲れていて頑張っている状況の私を作り出しているんだなぁ
と思いました。 

これをやっていると、自分で思っていた自分とはなんだったのか?
私はこういう人だし、こういう感情が湧いて当たり前だと思っていたし、
人間としては当然の事とずっと思っていましたが、
それって一体なんだったのでしょう?
完全に思い込みだったんだと思いました。

本当の私は、何もいらない、ただ静かにそこにいたいだけなのかも、
と思いました。なんだかじんわりと幸せな気持ちになりました。
何もない私がただ在る?beの感じが少し感じられた気がしました。
私はこれを気づきたかったのかな?
自分自身が喜んでいる感じがして、幸せな気持ちになりました。 

でもそれはほんの一瞬で、
またあれをもう一度とも思ってしまってるので、
それは執着になってしまってますね。
また少しずつなのかなと思っています。 

そして、これらの出来事の後に瞑想をしたら、
まゆさんの言葉がスッと入ってきました。
『何もいらない、委ねよう』という言葉が、うかびました。 
思考や、マインドというものが、自分ではないと思えました。 

私は書く事で気持ちが整理されていろいろな発見ができるんだなぁ
と改めて思いました。講座の感想や課題などで、書いていると
度々ヒントやインスピレーションが湧いてきました。
もしかしたら、私にとって書くことは、
瞑想に近いものがあるのかもしれません。
今後も何かあった時は書くと良さそうです。 

今回のこの課題も、これをやることによって、
この3つが自分ではない感覚を得る事ができるので、
私にはとても合っていると思いました。
今後も気持ちが揺れ動いたり、疲れた時などに、
私が名付けた3人⁉️に話しかけていきたいです。 

これで、本当に全てが終わりかと思うと私も感慨深いです。
正直めんどくさい事も度々でしたが、
あれらの積み重ねがあって、
気づきが重なっての今なんだと思います。

1年近くずっと、講座の皆さんと一緒に
リトリートしていた様な気になっています。
リトリート行った事無いので、違うかもしれませんが💦 

なんだかとても寂しいですが、
それぞれの旅はまだまだ続くと思うので、
私もいろいろ寄り道しながらでも、
これからもやっていけたら良いなと思っています。 

まゆさん、みなさん本当にありがとうございました。



思考と感情は繋がりが強い、どこからと区別がつかないほど
必ずセットになっている。 
湧き上がる感情を言語化しようと頭の中で説明が始まる。 
過去にあれこれ思いをめぐらせていると、
当時の生々しい感情が蘇ることがある。 

それに比べると肉体は
感覚があるものに対しては敏感だけど(皮膚や胃腸など)、
普段生活していて意識に上がらないもの(肝臓や腎臓など)
に対しては自分という感覚が薄く別物という認識はしやすかった。 

思考と感情の連鎖が止まらなくて苦しくなった時、
これもそれも私ではない、私そのものではないと心で宣言すると、
何もない瞬間が生まれるような感じがした。 でも長くは続かない。 

そのうち、含むの反対の
切り捨てるをやっているような気持ちになってしまった。 
違うベクトルの内容を混同してしまう。ずれてると感じた。 

苦しみだけではなく、
喜びも自分ではないとやってみたが抵抗を感じる。 
喜びそのものになってこの感情に浸っていたい、執着心がある。 
苦しい時はその感情やそれに伴う思考を手放したい、
自分とは別物だという認識で在りたいと思っているのに、
喜びなど自分にとってウエルカムな感情の場合は
別物と考えたくないのかもしれない。 

普段の生活をすべて自分そのものから一旦距離を置くと、
楽になる部分もあれば興醒めというか
すべてがつまらなくなるような感じがした。 

もしかしたら興醒めしたくないという思いが根底にあって、
表面の私は望んでいないけれど、このまま悩んで苦しんで
その状況を無意識に楽しんでいるのかもしれないと思った。



初めは感情、思考、肉体に寄り添おうとしていました。 
感情⇨疲れてるんだなぁ 
思考⇨疲れてるねぇ 
肉体⇨疲れてるね、やっぱり。 
ケアしてあげよう〜と思ったところで 
宿題の内容を確認したら勘違いしていたことに気が付きました。 

まぁとにかく疲れている時期だったので 
「疲れている」と感じているのは私ではない
と意識を切り替えた瞬間に 
疲れを感じていた思考や身体はどこかへ行きました。 
瞬時にして楽になったと感じたのです。 

ただ、「私」という視点はどこにおけばいいのやら、、?
と戸惑うこともありました。 
私じゃないなら私は何処へ行ったのか、と考えたりもしました。 

前回の瞑想で、受講生の方の感想に
肉体のことを「入れ物」と表現されている文面がありましたが 
まさにその通りで、この肉体に
スッと入ってスッと出るというような感覚でした。 
車や景色とつながっている感覚になることもありました。 

感情は思考と連動していて湧き上がってきて 
また、身体からも連動して感情がうまれる 
感情そのものはすごく静かで感じ取りにくいなとも感じていました。 

自分の中の掟を見つけて、寄り添って、
瞑想を体験した後だからこそ
「私ではない」という視点を持つことができる。 
すごく丁寧な講座だなぁと思うと同時に、
ここまで一歩ずつ歩んでこられたのだなぁということも実感しました。 

すぐに寄り添おうとするとする自分がいるけど 
そこからスッとぬけると 
縛っていたものは思考や心、身体。 
手放した先はニュートラルな状態で 
感情などのない感覚に近いのかなと思います。 

まゆさんの、私じゃなかったわ!という台詞のおかげで 
この媒体の呪縛から抜けたような感覚がありました。 

続けていくうちに 
寄り添いたい 
もっと寄り添ってと言っている気もしてきました。
 
でも寄り添いたいと思っているのももどきの自分で 
寄り添ってあげたほうがいいと思っているのももどきの自分、
ということに気が付きました。 

「私」という入れ物があって 
そこで起こっていること 
そこで起こしていること 
を、見ている一体化した広い、なにか。 
あぁ、私じゃなかったんだな、と不思議な感覚になりました。




【日々と宇宙の講座アドバンス第二期】

















【日々と宇宙の講座ベーシック第一期生の皆さんのシェア】


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